LWの「論理哲学論考」が傑出した哲学書であることは万人が認めるところだと思う。しかし「論考」はいわゆる哲学入門書の類ではない。また、「~とは何か?」というような提起問題を解き明かす。といった哲学的概念の解説書でもない。教科書でもない。それは哲学的思考の大枠を論理的体系的に記述すること。つまり「哲学」それ自体を論理的に構造化することで、哲学的問題の一切合財を全て一括して解決することが意図された野心的な書物だと私には思える。 わたくし的に「論考」の理解の深化があったとすれば、いわゆる「普遍論争」と呼ばれる中世以来の哲学問題およびその展開継承とを対比対照することが重要であった。「普遍」あるいはそれに類した形而上学的・超越論的な「語」を有意とする考え方にはおおよそ三つの視点がある。第一の立場は実体として実在するという実在論の立場。ギリシア哲学・プラトニズムはその代表的な例。もう一つは、「普遍」という語は単なる文字形象と音声によって発語し得る「語」あるいは「名辞」であるとする唯名論の立場。もう一つは、事実的な理解の抽象として表出され名付けられた「概念」であるとする概念論の立場。実在論であれば、それ(普遍)は論を待たず実在する。概念論であれば、概念定義が問題解決の要である。唯名論では、語の使用者において語を使用が有意義だとしても語は指し示しに留まる。実在論者の主たる哲学問題は「存在論」である。概念論者は「概念定義」に努力を傾け、唯名論者は「語の使用」を議論の中心に据える。これらの特徴により、ある哲学者、哲学議論がどのような立場によるのかは容易に判別し得る。 「論考」の言語論は、この「実在論」「概念論」「唯名論」三区分で言えば「唯名論」に近い。哲学史的に唯名論者とされているのは、「オッカムのウィリアム」で、「論考」の3.328に以下のような指摘がある。 3.328 「使用されない」記号は意義を欠く。これがオッカムのカミソリの真意である。オッカム、そして「オッカムのカミソリ」は LWにとっては希有な哲学者、引用例の一つ。使用された「オッカムのカミソリ」という語はたぶん特別の意義がある。それは「論考」が「唯名論」に近い論理であること。それは同時に「沈黙」によって「使用されない」語は意義を持たない。という7節の結語さえ暗示しているのである。 「論考」はこの唯名論的な立場、すなわち記号操作に依って以下のように全論展開される。この展開は以前に書いたように旧約聖書の創世記の最初の7日間のアナロジーでもあると思う。 世界(1)→ 事態・対象(2)→ 名辞・命題(3)→ 思考(4)→ 論理的演繹・推論(5)→ 論理(6) → 沈黙への配慮(7) この唯名論的な記号(語)操作の考えは後期においても、ルールに基づく語の使用すなわち「言語ゲーム」として一貫した哲学的立場であり続けたと私には思える。もちろん、LWが「語り得ぬモノ」を重要視していたことは言うまでもない。しかし、手記手稿日記は別としても、彼の「哲学的」著作において、「語り得ぬモノ」は依然として「語り得ぬモノ」であり続けた。その意味で彼は、実在論者でも概念論者でもなく、名辞と命題による唯名論的記述者の立場をずっと維持し続けた。と思われるのである。 ちなみに、唯名論は英語で "nominalism"。ウィトゲンシュタインと唯名論の関係を論じた日本語の文献はとても稀であるが、英語圏ではよく見られる。Google検索で" Wittgenstein nominalism"で調べれば関連頁を多数見いだせるであろう。 |
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「論考」は「語り得ぬもの」を「語り得ぬもの」として文言上とはいえ指し示すことで、またLW自身「論考」7節の結語を最重要と断言していることもあって、LWの哲学は形而上学に近しいといった評価に根拠を与えている。ここで注意しなければならない点は、この「語り(sprechen)得ぬもの」についての7節の結語は、実在論云々ではなく、「語り得ぬ事柄」を話そうとする話者の行為に対するコメントである。LWは論理学的・唯名論的な語の使用についてのみ語っている。彼は「論考」7節においても、話者の言語行為とその「発話」を指し示しているだけだということである。「語り得ぬもの」という語が何らかの実在を指し示している。と理解したいと思うところがあってもそれは留保した方がよい。アウグスティヌスはこの「発話者の発語行為」と「語が指し示す対象」とをきちんと切り分けて考えていた。LWはこのアウグスティヌスに大いに感化を受けた弟子の一人だとみなせる。『キリスト教の教え』第一巻第六章 『アウグスティヌス著作集6』33-34頁 教文館「論理哲学論考」は「論理学」を用いた「哲学体系」である。それは「哲学原論」であって「哲学それ自体」の論理学的体系記述である。”Tractatus Logico-Philosophicus ”「論理学的な哲学の論考」。だからそれは「言語一般に関する哲学」としての「言語哲学」ではない。日常会話や宗教的な信仰告白、文学・詩学等の創作など、非哲学的な言語行為は「論考」の論外に位置する。もしそうした日常的な言語行為や創作的な言語行為もまた「論考」の射程内に位置するとしたら、例えば「スターウォーズ・サーガ」みたいな作り話は物語それ自体に対応する「事実」が(制作裏話は除くとして…)無いのであるから、「論考」の写像理論に依れば、それら作り話の物語の全てが無意味と判断される得るであろう。しかし、そんな断定は荒唐無稽レベルの誤解だと言える。「語り得ぬもの」にそれら「おとぎ話的」創作は含まれない。だから「スターウォーズ」は「神秘」でも何でもない。 「論考」においては、「哲学」は事実記述され得ないような事柄に対する言及は無意味であるから、そのような言及は差し控えることが妥当とされる。また言及したとしても、そのような「語り得ぬことがら」への言及は「論考」哲学においては無意味である。ということで、実在論や形而上学、宗教学的独白などは、哲学の枠外で話し得る何か。ということとして「論考」的哲学の守備範囲から放逐される。ただし独我論が自我という基底で実在論と一致・交錯する指摘はしているものの、フレーゲやラッセルらの実在論的論理学については批判的である。ここでは詳論しないが、簡単に言えば、実在論はおおよそにおいて写像論理・事実叙述主義に反するが故に真偽判断の範囲外だから放置(pass over)なのである。この点でLWを形而上学者であるとか実在論者であるとか断ずることには無理があると思う。 しかしながら、この「論考」的な哲学体系では、言及が不十分であったり、また語り得ぬがゆえに黙してしまうことでかえって議論を不十分にしてしまったところがあるのではないか。特に「概念」の取り扱いはその一つであろうと思える。 |
「普遍論争」の論理を「実在論」「概念論」「唯名論」と三区分し対照すると「普遍」把握の三様態の相違点・差異を簡略的にではあるが、わかり易く表現できると思える。すなわち、 1.実在論:普遍性は事物の存在成立の「前」にいわば「イデア」としてア・プリオリに存在する。 2.概念論:普遍性は事物と共に事物の「中」に属性・性質として存在する。それは定義可能で言語化し表象される。 3.唯名論:普遍性は事物の認識の「後」に我々が属性・性質として名指し呼称する命題表現として機能する。 この「前」「仲」「後」という三区分は典型的ではあるが、あくまで簡略略式な表現で、いずれかの立場に限定的に固執した論者は少ない。むしろ重みの片寄りがあって、どちらかといえば唯名論者、あえて言えば実在論者。という二股三股またぎの立場であるほうが多いであろう。 「論考」のLWの基本は唯名論。ただし世界の基盤である自我(主体)に限って実在論の余地を認めている。 LWに限らず思想史上の哲学者がどのような重み配分で哲学をしていたのか。それは思想史的で歴史学的な文献学の範疇内で整理集約することが可能ではあると思うが、少なくとも私は職業哲学者ではない。という言い訳を名文としてあえてそうした試みをしようとは考えない。ここでは、概念論が、実在論と唯名論との中間に位置するという思想史的区分が片方にあるだけでなく、哲学は概念という思考手順と無縁でなく、概念を用いるが故に様々な困難や誤謬や理解不足などを内在させ得ることを示すことが重要だろうと思う。 「論理哲学論考」には「定義」が無い。あるのはただ「注釈」だけである。実に「特異」な構成である。かの番号付けの文体はその注釈の位置関係を明瞭にするための技法である。語や表現に定義が無い。ということは、そこでは概念語は用いられていない。と考えることができる。LWの師の一人であるフレーゲは「論考」を贈呈され一読し「語の定義もなく論が展開されている」という点を返信の手紙で指摘し、いわば「論外」として読み込みを行わなかったらしい。と伝えられている。ウィトゲンシュタインの返信は残っていないのでこの語の定義についてどのように返事を書いたかは事実として不明ではあるが、おおよそ、次のように考えることができるであろう。 「論考」において、「論理」に関する語、名辞、命題はすべて「同語反復」すなわちトートロジーなのである。であるから定義は不要である。それと同時に無意味でもある。同語反復なトートロジーであるがゆえに反駁も異議申し立ても不能である。しかるに、この同語反復命題による「論理」によって構成されるがゆえに「論理哲学論考」は序文において「究極的に問題を解決した」と宣言されるのである。 6.1 論理の命題はすべて同語反復命題である。 (論理哲学論考) この「同語反復の理論」というアイデアは、草稿1914-1916の中ですでに記されている。 1914年10月19日 このLWの「論理」は識者の間では「語り得ないことがら」の一つとして取り上げられる。LW的神秘主義の構成要素とみなされてもいる。しかし、それは一面な見方・捉え方であると思える。仮にある言明の「論理」をそれなりに定義解説したとしても、厳密にその定義解説が有する「論理」の定義解説しなければ完結しない。そしてその副次的な定義解説にはさらなる定義解説が必要である。そしてその再定義再解説は入れ子のように延々と終わり無く続く。しかるに「論理」は定義できず、どこか途中で中断されるであろう「注釈」としてだけ可能である。 以上の観点から、「論理哲学論考」は概念論ではあり得ないのだと私には思える。さて、これはひとつの解釈であるに過ぎない。「論考」がもし仮に「同語反復」な哲学体系であるとするなら、それはすなわち即無意味でもある。ならばなんら読み学び理解するに値しない。という考え方もあり得るであろう。有名な「梯子の喩え」はこのような反意を含蓄している。 私が解釈するところでは、「論考」の「論理」の扱いはさらなる「高み」を射程にしていると思える。それは、アウグスティヌスの「三位一体論」と対比される。いわゆる基督教の論理で「父・子・聖霊」はひとつである。という考え方である。この考え方はいってみれば至高の同語反復・トートロジーでもある。アウグスティヌスはこの三位格の関係を「言葉を出すもの」父、「言葉」子、「言葉によって伝えられる愛」聖霊という類比によって捉えている。LWの写像理論を三位一体論と対照するなら、父:「事実」子:「名辞・命題」聖霊:「論理」に対応する。論理的に写像された事実記述が完遂されたなら、その命題において事実の意味が顕れる。論理(聖霊)は命題において顕現する。(いわゆる聖人が聖人とされるのは、このような論理(聖霊)がその人の言葉や生き様に顕現しているとみなされるからであろう。それは「敬虔」という語の理念でもある。) 唯名論的に、つまり発語行為こそが重要であるという見方では、話者が発語や命題記述を行い事実を正しく写像する限りにおいて、部分とはいえ「世界」あるいは「御業の一部」を普遍的な正しさをもって記すという意義を持つ。独我論的にいえば、論理的に真である記述・理解で世界記述が充満するならば、「世界・自我・私」は神的な「外」世界と密着密接に接合し結果として合一する。ここに至った領域には、いわゆる「存在論」とは次元を異にした特別な意義があるように思えるのである。それは「世界」を超えるための跳躍であるのかもしれない。 ウィトゲンシュタイン全集第5巻、『倫理学講話』394頁「ここで述べられた思想はけっして新奇なものではない」という序文の記述がアウグスティヌスの「三位一体論」の継承を指しており「論考」はアウグスティヌスの論理を論理学的に詳述した著作なのだ。という捉え方も可能だと私には思える。そうであったとしても、それは宗教的想念の領域であろう。しかるにLWの哲学領域としては語らず放置・沈黙されるべきだとされたのかもしれない。 ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」はこのような基督教的伝統、アウグスティヌスの影響の下で構成され言語化された著作であろう。その論理は「人手による定義」としての「概念」が入り込む余地はあらざるべきであり、ただただ同語反復・トートロジーでのみ構成されなければならなかった。しかし、それは人のなす哲学思想でもあるから、人(子)の側の言語行為としてなされるべき唯名論によって構成された。… と私には思えるのである。 |
ウィトゲンシュタインの思想は、前期と後期。「論理哲学論考」と「哲学探究」と二つに分けられる。あたかもそこには二人のウィトゲンシュタインがいるかのごとくである。とはよく言われることである。なるほど、一見外見はそのように見える。この通俗的な見方は、主に著作の文体に起因している。徹底した番号付けによる「論考」の構成と比見すれば、後期の「探求」などの番号付けはラフに過ぎて散漫な印象を与える。しかしながら、後期の著作の大半は序文まで用意された「探求」を含めて確定稿でなく、遺稿管理者により編集された手稿のまとめであるに過ぎない。もし仮にウィトゲンシュタインに3万年もの寿命が与えられていたなら、より緻密で精緻な構成を採用しただろう。と思える。しかし、大仕事をいくつもこなすには、人生は短すぎるのである。 先に述べたように、「論理哲学論考」は「同語反復」命題としての論理命題によって構成された「哲学原論」である。同語反復命題とされる論理命題表現という断定的な言い切り確言」で構成した。「論考」「探求」をともに「言語哲学」とする見方、そしてLWの言語哲学はその後に続く分析哲学の先駆であるという見方がある。それは一面的な見方だろう。ウィトゲンシュタインは「哲学が言及可能限界」に見定めるために、哲学の内部にあって、哲学の限界を「カテゴリー」概念を全く用いずに線引きし哲学の限界を示したのである。 別の見方からすれば、単なる「独断論的哲学」に見えるであろう。すなわち自分勝手で独善的に過ぎる定義を振り回して書かれた極端に自己満足な哲学書であると。これはウィトゲンシュタインの哲学が「確言」することを追い求め、「概念」の使用を避けた結果、言い切りや断定的な表現が多出していることに対する印象。哲学スタイルの違いがもたらす誤解の一種である。 これに似た別の見方には、ウィトゲンシュタインの哲学は、概念や語の定義に精緻な議論・言及がない。これはアマチュア・素人の哲学であって、哲学の専門家はその種の曖昧な議論はしないものである。といった批判がある。「素人哲学」云々は話が下品となるので論外として、彼らの主張を言い換えるなら『ウィトゲンシュタインは言語を「概念的」に把握しない。ウィトゲンシュタイン哲学は、「論理的な認識の方法を組織化した形式的な哲学」にすぎない。』と表現されるだろう。このような批判はヘーゲルのカント批判に似ている。ウィトゲンシュタインはへゲール弁証法的な合意的理解によって形成されるような「概念」の使用は主義ではなかった。哲学が正しさを追い求める言語行為である以上、弁証法的な合意形成を下地としたのでは、その正しさも歴史的な推移に左右され定まることがない。へーゲルのように概念の理解の変容も「摂理」として受け取れたり、「概念」の使用こそが哲学的正しさの根源である。と信じているのであれば話は別ではある。 そこまで無茶な批判をしないまでも、論考内部の個々の記述に対する文節を追った批判はいくらでもある。例えば野矢の「論理哲学論考を読む」などがそれである。私個人はそうした文節単位の細かな議論に入り込もうとは思わない。というのも私個人の関心は、ウィトゲンシュタインその人の生き様と思想がどのように関連しているのか。その彼個人の思想史的なスケッチを描くことにあるのだから。このようなスケッチが描けてはじめて、ウィトゲンシュタインの思想を鳥瞰しつつ補完できたなら、その先に進めるのではないか。そう考えていた。もちろん、そうした仕事は本来、職業的な哲学教師の領分であろう。既存の解説書などを手にして読めば事済むはずである。ところが、これぞという解説書が実は書店に無いのである。 ウィトゲンシュタインの後期思想は、「未定稿のまとめ」としてしか残されていない。未定稿というより、「スケッチ集」と表現された方がよいかもしれない。ダ・ビンチやミケランジェロは人や生物の生きた動きを精緻に描くための修練修養として、当時禁忌とされていた死体解剖などの場を設定し解剖図のスケッチ・デッサンを多数残している。この点で、ウィトゲンシュタインの手記・手稿・未定稿の類は、哲学的な解剖図で、スケッチ・デッサンなのだ。という見方もできる。 ウィトゲンシュタイン本人においても、整然たる体系化には至らなかった。それでも、「哲学探究」に限っては、いわば素描集ではあるものの出版が意図されてもいる。いずれにしても天才をして困難な仕事を凡人がその片鱗をさえまとめ体系化するのは困難であろう。実際、私自身も長年読み続けてはみたものの、気がつくと、ずいぶん歳を取ってしまっていることに愕然とする。 前述したとおり、私の解釈では、「論理哲学論考」は唯名論であり、そこで使用される語の大半は同義反復命題としての論理命題であった。しかるに哲学的な「概念」とは無縁であり概念定義からも自由でありえた。それゆえ、定義を巡る批判と承認という弁証法的な議論からも無縁であり得る。それゆえ、「論理哲学論考」は究極的な哲学体系として機能し得るし、同時にそれがトートロジーであることによる無意味さの結果、哲学的な言辞の限界が示され、いわば哲学は投げ捨てられた梯子のごとく「(実在論的な)実生活」においては不要無用である。「論考」の意義とは、私においてはそのようなものであった。 このような概観から「論考」に欠落している哲学的議論があるのはまた明白であろう。一つは「語り得ぬもの」としての実在論的領域であり、もう一つは、西洋哲学の様々な議論を推進してきたはずの「概念」とよばれる語や命題の意味了解に関わる人為的な領域である。 実在論的な領域については、それは宗教的な領域として哲学から切断され得る。それは教会あるいは食前の祈りなどで語られるのは自然としても、事実として確認し得ないことがらは哲学として述べなければよい。とされるだけであろう。ここにおいて、哲学と宗教とは同一個人においてもきちんと線引きされて共存し得るのである。 さて、もう一つの問題、「概念の扱い」は厄介な問題である。概念とは簡単に言えば、「~とは何か」という問いに対する回答という形態で表現される語の定義・解説の類である。語の意味理解であるともいえる。 ところが、ウィトゲンシュタインの「論考」の概念は「形式的概念」であり、p,q,rなどの記号で置き換え表記可能とされている。さらに、基本的な記述形式である要素命題に対する否定論理積操作の繰り返しの結果が命題だとされる。逆に辿れば、概念は真理函数の操作の繰り返し回数の回数分、要素命題へと集合分解できる。 6 真理函数の一般形式: [, , N()]. これは命題の一般形式である。これは、ある一般的な概念が命題によって言明され得るのだとしたら、その概念は概念の生成基盤となる諸事実を記した要素命題の否定論理積操作の繰り返しの結果である。要素命題の否定論理積。さてそれは確かに概念の生成の過程と結果を説明しているとは思える。しかし、愛、法、道徳のような社会的生活の核に位置するような概念とか、弁証によって正反議論の定まらない問題概念や、勘違いによる誤解や確信犯的な反事実的概念などの有り様までもうまく説明できてはいないと思える。 要素命題という事実記述の最小単位から構築された「論考」では、様々な誤謬や齟齬温床となる概念理解を「偽な様相命題を含むが故に無意味」などと排除することはできても、そうした発語を手懐け、調停し、相互的な合意へ至るような道を見いだすのは困難なのではないか。 ウィトゲンシュタインの哲学において概念の使用を忌避する傾向は根深い。それはほとんど生涯を通じて変わる事がなかったと思える。そして、この「概念」の考え方や扱いをより深化させていく道が後期思想の行方であったと私には思えるのである。 |