ここで書き連ねられている一連の文章は、大昔、学生だった頃に、ウィトゲンシュタインを読み始め、その当時、感じていた印象をとりあえずまとめてみようというメモ書きで、それ以上でも以下でもありません。 |
マタイ伝は「山上の垂訓」と呼ばれるイエスの説法が詳しく語られている福音書であり、共観福音書はそのマタイ伝の他にマルコ伝、ルカ伝の三書。第四福音書とはヨハネ伝のこと。ヨハネ伝の冒頭には前にも書いたように
> 初めに言(ことば)があった。
> 言は神と共にあった。
> 言は神であった。
> この言は、初めに神と共にあった。
> 万物は言によって成った。
> 成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
> 言の内に命があった。
> 命は人間を照らす光であった。
> 光は暗闇の中で輝いている。
> 暗闇は光を理解しなかった。
とあります。このヨハネ伝のいう「ことば」を「言語ゲーム」と読み換えてみる。ということは可能であるように思えます。ただ、ヨハネ伝のいう「ことば」と「言語ゲーム」とは等価ではない。これも確かなことのように思えます。これが等価になる場合とはイエスの行った言語ゲーム、あるいは旧約の預言者達の言語ゲームがそれであって、ふつうの人間の為し得る言語ゲームは「闇」に満ちている。そう考えていたのではないか。
このように書くこと自体、あまり大した意味を持たないように思えます。というのも、このような視点で発語してしまうこと自体はたぶん、ウィトゲンシュタインの「行儀作法」に反する部分に入り込んでいるから。ウィトゲンシュタインの哲学をある意味で、単なる「基督教文学」というカテゴリにおとしめることになるから。外的な視点からすれば、実はそう理解する方が容易だと思えるのだけれど、つまり、トルストイやドストエフスキーやキルケゴールの列に並ぶ基督教文学として彼の哲学を文学的に理解する。という外枠は、たぶん、宗教を括弧でくくれてしまう人にとっては、それなりの視座を提供することになると思えます。
後期のウィトゲンシュタインの言語ゲームとルールという概念(?)の扱いは極めて意識的に平坦な扱い、つまりそれをさらに細かく内分するような概念の導入をほとんど忌避していたも同然であるような議論の方法になぜ固執していたのか? この部分のこだわりが、他の哲学な人々との断層をなしていると思われます。
『ほかの人がどんどん歩いていくところで、わたしは立ちどまったままである。(反哲学的断章175頁)』
この「立ち止まりの思想」とも言うべき立場にウィトゲンシュタインを立たせ放しにさせたのは何なのか? なぜ?
前期・後期を通じて、世界はあるがまま、言葉で不必要にいじってはいけない。というようなスタンスを感じます。言い方を変えると、「言葉は恣意的に用いられてはならない。」しかし、恣意という語を彼はほとんど使っていない。論理学者は詩人にはなれない。ということなのかもしれません。いずれにせよ、「探求」は「立ち止まり」の世界なので、その深みに入る前に、なぜ「立ち止まる」のかということを考える視点だけは失わないようにしないと、大事なものを見失ってしまいそうな気がするわけです。
【参考資料】(キリスト教の教えについて1.6.6) WWWサイト"Augustine"より引用。
CHAP. 6.--IN WHAT SENSE GOD IS INEFFABLE.
6. Have I spoken of God, or uttered His praise, in any worthy way? Nay, I feel that I have done nothing more than desire to speak; and if I have said anything, it is not what I desired to say. How do I know this, except from the fact that God is unspeakable? But what I have said, if ithad been unspeakable, could not have been spoken. And so God is not even to be called "unspeakable," because to say even this is to speak of Him. Thus there arises a curious contradiction of words, because if the unspeakable is what cannot be spoken of, it is not unspeakable if it can be called unspeakable. And this opposition of words is rather to be avoided by silence than to be explained away by speech. And yet God, although nothing worthy of His greatness can be said of Him, has condescended to accept the worship of men's mouths, and has desired us through the medium of our own words to rejoice in His praise. For on this principle it is that He is called Dues (God). For the sound of those two syllables in itself conveys no true knowledge of His nature; but yet all who know the Latin tongue are led, when that sound reaches their ears, to think of a nature supreme in excellence and eternal in existence.
率直な感想を述べると、ウィトゲンシュタインはどうも大のギリシア哲学嫌いであったかと思われる。彼の個人的な手稿を読むと、プラトンやソクラテスへのコメントには惨憺たるものがある。
反哲学的断章より
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P43 1931年
『ソクラテスの対話を読むと、こんな気持ちにおそわれる。なんとおそるべき時間の無駄! なにも証明せず、なにも明らかにしない、これらの議論は、なんの役に立つのか?』
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P45 1931年
『「哲学はまったくなんの進歩もしていない」。「とっくの昔にギリシア人があつかったのと、おなじ哲学の問題に、わたしたちは頭を悩ましている」。耳にたこができるくらい、これは繰りかえされてきたせりふである。ところで、こういうせりふを口にする人は、なぜそうなってしまったのか、という原因がわかっていないのだ。その原因といえば、わたしたちの言語があいかわらずおなじでありつづけていること、そして、繰りかえしわたしたちが判で押したようにおなじ問題に誘惑されること、なのである。「sein(存在する、....である)」という動詞---これは「食べる」や「飲む」などと似たはたらきをするようにおもわれる---があるかぎり、また、時間の流れや、空間のひろがり、などが話題にのぼるかぎり、またこ ??らに類似したその他のその他の事情があるかぎり、人々はおなじように困難な謎に、何度も何度も繰り返し、ぶつかることになるだろう。また人びとは、どんな説明をもってしても、かたづけられないような問題を、凝視することだろう。
ちなみに、こういう堂々めぐりは、「超越」への望みを、満足させる。というのも「人間の知性の限界」を見た、と思いこむことによって、もちろん人びとは、限界をこえて見ることができる、と思いこむからである。』
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P45 1931年
『「.....哲学者たちは、プラトンが近づいた以上には「実在」の意味には近づいてはいない、....」という文章を読む。なんと奇妙な状況だろう。これでは、プラトンがそんなに遠くまでたどりつけた、ということになってしまう。それとも、わたしたちのほうがプラトンより遠くにすめなかった、ということか。どちらにしても、なんたる異常! つまり、プラトンはそんなにも利口だった、というわけではないか。』
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P83 1937年
『.....つまり、新しい言語が登場するたびに、おそまきながらわたしたちは、以前の説明をやくたたずと証明できるのではないか、と考えたくなるのである。(言語は、つねに新しく---しかも不可能な---要求をつきつけてくるものだから、どんな説明だって例がいなく、無効になる。そうわたしたちは考えたわけだ。
だが、これは、ソクラテスが概念を定義しようとしたとき、陥った困難なのだ。繰りかえし、言葉の新しい用法が姿をみせる。それは、これまで私たちの知っていた用法からつくりあげられた概念とは、両立できないような用法なのである。わたしたちは、「そういうはずはない!」---「だがしかし、実際そうなのだ!」という。私たちにできることはといえば、そういう対立を繰りかえすことでしかない。』
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P150 1947年
『ソクラテスは、いつもソフィストを黙らせてしまう。---ソクラテスがソフィストを黙らせることは正当なことであろうか。---たしかにソフィストは、自分がなにを知っていると思っているのか、がわかっていない。だからといって、それでソクラテスの勝ちというわけではない。つまり「ほら、きみにはそれがわからないじゃないか。」ということにはならない。また「要するにわたしたちはみんな、なにもわかってはいないのだ」と、鬼の首でもとったかのように主張されているわけでもない。』
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以上引用したように、ウィトゲンシュタインにとって、ソクラテスの弁証法はほとんど意味をなしていない。プラトンの形而上学はどうか。1931年のメモだけからは推し量るのは困難であるが、プラトン的な思想から遠く隔たった場所にいるということだけは確かだろう。
【総じてギリシア哲学とは「sein」という動詞の用語法に関する言語ゲームなのだ】。と言っているようにも読める。「存在とは何か?」という問いを「存在するという動詞の正しい用語法とはどういうものであるのか?」という文法上の問題に置き換えてしまう試み。ウィトゲンシュタインはそこまで言うのであろうか? しかし、そう言いたそうではある(笑)。
新しい用語法。新しい理論。これらに付き従って旧来の理論や表現を打破してみたくなる。これはどこにでも転がっている人間の知的欲望の一形態であろう。出来立ての理論をどこかからか輸入して既存の学界定説を覆してみせる。これは若き研究者なら誰しも夢見るヒーローストリーであるに違いない。そうしてある研究は進むのかもしれない。ギリシア的な哲学は「sein」の用語法を巡って、そうした用語法の乱立混乱をずっと支えてきた。そうした認識がウィトゲンシュタインにはあるように思える。彼が「哲学とは言語批判である」という時、その矛先はこのギリシア哲学とその派生哲学にこそ向けられてはいないだろうか。
ギリシア哲学は、キリスト教が成立する時期、キリスト教に対して極めて大きな影響を与えた思想である。オリゲネスの昔からキリスト教神学の歴史はギリシア哲学との折り合いをつける歴史でもあったと考えられるのであるが、ウィトゲンシュタインは、おそらくはそうしたギリシア哲学と融合したキリスト教とは対極にあって、いわばヘブライズム的なキリスト教理解、つまりギリシア哲学の影響を極力排除捨象する志向をもっていたのではないかと思われる。私はこの点は要であると考える。なぜなら、ユダヤ教の完結としてのキリスト教を受容する。というあり方は自覚的なユダヤ人としてのウィトゲンシュタインにとっては無理のない自然な流れであったであろうから。それはウィトゲンシュタインの思想と信仰との折り合いの耀|?でもある。
このように考えると、ウィトゲンシュタインは、グノーシス主義者ではあり得ない。ということも言えるかもしれない。グノーシス主義はヘブライ=ユダヤ教=>キリスト教がヘレニズム的混合を経て一種思弁的な信仰に傾いた一派であり、新プラトン主義的な形而上学とよく馴染むものであるからである。例えばアウグスティヌスはそうしたグノーシスの流れの一つの終点に位置するマニ教の信者であったが、回心して正統キリスト教徒になった人物である。アウグスティヌスはグノーシス批判でも知られるが、おおよそにおいて、過度なヘレニズム化に対する批判がその基本である。
キリスト教からギリシア思想を捨象し排除することは可能である。その結果そこに残るのは純粋なヘブライ思想とユダヤ教のラビでもあったユダヤ人としてのイエス=キリストである。しかし西洋哲学からギリシア哲学を捨象し排除したら何が残るのであろうか。これを想像するのは難しい。そうした哲学を行う一人の人物としてウィトゲンシュタインが残るのかも知れない。
ウィトゲンシュタインの思想の全体像を理解するということは、少なくとも私にはジグソーパズルを組み上げるに似た趣を感じるところがある。彼の著作のスタイルが断片を寄せ集めることで成り立っているせいもあるが、奇妙な形をしたそれぞれの断片に心捕らわれて、彼が全体を通して何の絵を描こうとしたのかが分かり難い。という読み手にとっての「完成図」が明示的に示されていないパズルであるというところに、かえって面白味を感じている。という次第である。
実はウィトゲンシュタインは、「絵」ではなく「音楽」を言葉で書こうとしたのではないか。そう思える節がある。幾つかの主題を様々に組み合わせて変奏曲に仕立て上げる。そんな意図があったのではないか。彼の手稿を読めば、彼がいかに音楽に通じていたかがよくわかる。オーストリアのウィーンで19世紀の世紀末で青春を過ごした哲学青年ならでは。というところか。
しかし、「絵」という観点で見れば、ウィトゲンシュタインの描いた「絵」の中央には明らかに空洞がぽっかり口をあけている。「語り得ぬ領域」というその空洞は、明確に線引きがなされていて輪郭を辿れるように縁取りがなされてある。遠くからみなければその輪郭が何を顕しているかはわからない。その縁取りだけで描かれた絵の中央には何がはまるのか。それは「信仰」である。というのが私の考えである。
ウィトゲンシュタインが自身の哲学において「信仰=宗教」をあからさまに持ち込まなかったのは、そうすることが宗教者として哲学を行う際に取るべき態度であるという信念に基づいていたからだ。ということは必ずしも正しくない。「宗教」と「哲学」は完全に切り離して別個に営為されるべきものだということではなかった。むしろ、信仰が「哲学」によって蝕まれることを忌避し、「哲学」が信仰によって蹂躙されることを拒絶するためにこそ、その境界線を厳密に引かねばならない。と考えたのであろう。この線引きこそがウィトゲンシュタインにおいて哲学を可能にする大前提であった。また彼の思想はその線引きの両側を含むという点を見逃してはならない。
「信仰」と「哲学」との混同による混乱は西洋思想の歴史でもある。例えばギリシア思想に含まれる多神教的な考えはユダヤ教<>キリスト教には本来馴染まない。しかし2世紀に生きた神学者オリゲネスに対する異端の刻印は、彼が本来ギリシア哲学の教師であり、その博識の故にキリスト教をギリシア哲学の視点から理解しようと努めさらにそうした視点から著した著作に起因している。またグノーシス主義として知られる「異端」な一派は思索の深みにおいて人は神と同一化することが可能であるという立場を取ったのであるが、これも一神教としてのキリスト教とは相いれられないものとして排斥されている。このような神学上の異端論争の主因が宗教理解とギリシア哲学さらには科学との折り合いをどうつけるかと言う問題??主たる論争点であったのは疑うべくもない。
繰り返しになるが、読み手の側からすれば、少なくとも私には、ウィトゲンシュタインの思想は、様々な哲学的言辞としての断片で打ち固められた縁取りとその縁取りによって輪郭づけられた空洞・白抜きの絵として、「信仰=情熱」が顕われてくる2つの部分から成り立つジグソーパズルなのである。まさに中央に位置すべき絵は遠目で見た場合に限りそれが浮かび上がって顕われてくるように仕掛けられてある。この観点でみれば、前期も後期も実は存在しない。とさえ言えると思われる。
ウィトゲンシュタインはロシア文学、特にトルストイとドストエフスキーの影響を受けていると言われている。といっても、私の知る限りでは彼の独白の中からその影響を推し量るのは難しい。
反哲学的断章 P156-157
1947年
トルストイは「芸術作品は『感情』を転送する」というまずい理論を立てたが,わたしたちはそれから多くのものを学ぶことができるのではないか。---
じっさいわたしたちは、芸術作品のことを、感情表現そのものとは呼べないにしても、感情的表現、または感情つきの表現と呼ぶことはできるだろう。だから「その種の表現がわかる人は、その種の表現と同じように『振動して』、その種の表現にこたえるのである」とも言えるのではないか。「芸術作品は、なにか別なものを転送するのではなく、芸術作品じしんを転送しようとする」と言えるだろう。それはちょうど、わたしがだれかを訪問する場合に似ている。つまり、わたしは、たんにそのだれかにこれこれの感情を呼びおこしたいと思うだけではなく、むしろ、なによりもまずそのだれかを訪問したい。そしてまた当然のことだが、歓迎されたいと思うわけである。
だから、「自分が書くさいに感じることを、読者には読むときに感じてもらいたい、と芸術家はのぞんでいる」などと主張することは、ますますもってナンセンスなのだ。(たとえば)ひとつの詩を理解するということは、その詩のつくり手がそう理解してもらいたいと思うような具合に理解することである。この事情はわたしにもよくわかる。っしかし、「詩人がその詩を書くさいになにを感じたのだろうか」ということは、わたしにはまったく興味がない。
P202(1948)
きみの書くものは理解しにくいから、君は下手糞な哲学者なのではないか。きみがもう少しましな人間なら、むずかしいことをわかりやすく書くと思うのだが。----ところで、そんなことができるといったのはだれだ!? (トルストイ)
これらの文章を読む限りでは、さしたる影響は読み取ることはできない。
状況証拠としていえば、ウィトゲンシュタインはケンブリッジに戻ってから、パスカル夫人を家庭教師として仰いで「ロシア語」の勉強を行い(1934~1935年)、何度かロシア(ソビエト)への移住を計画し実行に移そうとして試みたことがある。という点が気になる。実際にロシアへの旅行も行っている(1935年9月)。そして1936年は知人に対する懺悔告白訪問シンドロームに陥っている。
また、マルコムの「ウィトゲンシュタインと宗教」のP17にある引用には
しかし --- 事実我々はそう言われているのだが --- 、キリスト教は祈りの言葉を沢山言うことではない、ということを思い起こせ。もし君と私が宗教的な生活を送ろうとするならば、我々は宗教について多くを語るべきではなく、我々の生活の仕方が変わらなくてはならないのである。私の信じるところによれば、君が他の人々を助けようとするときにのみ、最後には君は神への道を見出すであろう。
「生活の仕方を変える」という主題はドストエフスキーの主題でもあった。最も一般的な「罪と罰」のエピローグにこうある。
新潮文庫版「罪と罰」下巻P457
それに、こうした一切の、一切の過去の苦痛とは果たして何であるのか! ....(中略)....いま彼はなにごとにもせよ。意識的に解決することが出来なかったに相違ない。彼はただ感じたばかりである。弁証の代わりに生活が到来したのだ。従って意識の中にも、何か全く別なものが形成さるべきはずである。
ラスコーリニコフはソーニャの献身的な愛を通して牢獄に入ってはじめて自由を得る(ドストエフスキー的な逆説!)。それは「新しい生活」なのである。ウィトゲンシュタインもまたおそらくはドストエフスキー的な「新しい生活」を欲していたに違いない。さもなくば、ロシアへの移住など誰が計画するだろうか。ウィトゲンシュタインはキリスト者(本人は「福音伝道者」だと自称していた)ではあったが、マルキストではなかった。(トラッテンバッハの住人は彼を「アカ」とみなしていたようであるが)その彼がロシアへの移住をなぜに望んだのか。それは、ソーニャの台詞にある
新潮文庫版「罪と罰」下巻P423
「四つ辻へ行って、みんなにお辞儀をして、地面に接吻なさい。だって、あなたは大地に対しても罪を犯しなすったんですもの。そして大きな声で世間の人みんなに『わたしは人殺しです!』とおっしゃい。」
このソーニャをして語らしめたドストエフスキーの言葉には迫力がある。ドストエフスキー好みな人々にとって、ロシアの大地はこのように実に特殊な大地なのであるということが言えると思える(^_^)。
バートリーの本では、ウィトゲンシュタインはトラッテンバッハでの小学校教師赴任時代にはドストエフスキーの熱心な読者であることが示されている。
W.バートリー「ウィトゲンシュタインと同性愛」 P124
事実、彼らの関係(同僚ノイルーラーとウィトゲンシュタイン)は非常にうまくいっていた。彼らはラテン語で、会話を交わし、また手紙を交換していたと言われている。そして、ウィトゲンシュタインは、繰り返し、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読んで聞かせたのである。
そう、ウィトゲンシュタインはラテン語には不自由していなかった。ということはアウグスティヌス等も原典で読めた。ということを意味する。
いずれにせよ、「弁証にとってかわる生活」というドストエフスキー的なスローガンが後期のウィトゲンシュタインの核の一つだと思われる。彼の後期の思想はある意味でこの強力な磁核を中心に反転して形成されたと言える。哲学から弁証の除去すること。ありのまま事実を記述すること。議論のための概念を捏造して議論に導入しないこと。等など。
さて、振り返ってみて思うことがあるとすれば、ウィトゲンシュタインが残した個人的な言行録の中でさえ、やはり彼は内心を吐露しつくすような核心を明らかにしているようには思えないということである。特に重大な影響を受けた思想や人物に対するコメントの多くは沈黙で封印されている。つまり「私小説的な独白」が欠落しているように思われる。私自身、この一連のスレッドで記していることは、いわば外堀の外から外堀がどうなっているのかの観察録に過ぎない。内堀から中は見えないから想像するしかないのである。
P.S.
もう一つの「鍵」に関するコメント(反哲学的断章P146 1946年)
錠前師が置いた場所に、鍵が永遠に置き去りにされていることがある。錠前をあけるようにと錠前師がきたえあげた鍵なのに、まるで使われることがないのだ。
げげ、1946年にも1930年と同じ事を書いている。ということは、「探求」にも、きちんと鍵は吊されてある。ということではないか。
「反哲学的断章」
P27 1930年
ある特定の人が部屋に入ってくるのを、君が欲しないのなら、その人たちが鍵を持っていないような鍵を、つるせばよい。しかし、そのことについてかれらに一席ぶつのは、愚かなことである。もっとも、部屋を外側からほめそやしてもらいたい、という魂胆があれば、また別だけれども。礼儀をわきまえた、気品ある態度。錠をあけることができる人だけに気づくように--いいかえれば、そのほかの人には気づかれないように--鍵を扉のまえにつるすこと。
P146 1946年
錠前師が置いた場所に、鍵が永遠に置き去りにされていることがある。錠前をあけるようにと錠前師がきたえあげた鍵なのに、まるで使われることがないのだ。
さて、ウィトゲンシュタインの「なぞなぞ」である。1930年の鍵のなぞなぞは「哲学的文法」の序文のスケッチとして書かれている。また、1946年の「なぞなぞ」は文脈不明であるが、「探求」の脱稿前後と考えることができる。ウィトゲンシュタインはその著作に置いて意図的な隠蔽を施すことが一つのスタイルであった。例えば
バートリーの著書「ウィトゲンシュタインと同性愛」より
P.63 フォン・フィッカーへの手紙から
『この本の狙いは倫理的なところにあります。かつてわたしは、序文のなかに、現在は事実としてそこには含まれてはいませんが、ある文を含めておこうとしました。しかし、ここではあなたのためにそれを書き記しておきたいと思います。それはあなたにとって、おそらく、本書への鍵になるでしょうから。当時、記しておこうと思ったのはこうでした。わたくしの仕事は二つの部分からなっている。ここに提示されたものと書かれなかったいっさいとである、と。そして、重要なのは、まさしく、この第二の部分です。わたしの本は、いわば内側から倫理的なものの領域に限界を引こうとしているのでして、わたしの確信からすれば、これがそうした限界を引く唯一の厳格な方法なのです。手短にいえば、こんにち他の多くの人びとがまさにおしゃべりしているところで、わたしは、じぶんの本のなかで沈黙することにより、あらゆるものをそのあるべき場所にしかと据えたと信じています。またその理由からして、もしわたしにして大きく誤っているのでないとすればの話ですが、この本は、あなた自身がいわんとしたことについても多くを語っていることになるでしょう。もっとも、あなたには、この本の中でそれが語られているということがわからないかもしれませんが。いまわたしは、あなたには、序文と結論を読んでもらいたいと思っています。なぜなら、それらは、この本の狙いを率直に表現しているからです。』
「論考」においてもあからさまな隠蔽が施されている。そして、それは単なるなぞなぞに留まらない重大な意義が与えられているのである。上述の手紙では、その種明かしが半分だけなされている。全て種明かしがされているわけではない。
1930年と1946年の「鍵のなぞなぞ」はこの「論考」の隠蔽とは若干ニュアンスが異なることに注意したい。「論考」は公刊された著作であるが、「哲学的文法」も「探求」もウィトゲンシュタインの生前には公刊されてはいない。という点である。もちろん、「探求」はほとんど出版される形に仕上がってはいたのではあるが。
この「鍵」が何であるのか。端的に言えば、それは「信仰」であると私は考える。しかし、それだけに留まるのであろうか。1930年の「鍵のなぞなぞ」はおそらくは、「論考」の作為的な隠蔽を含み込むニュアンスで語られていると思われる。しかし、その16年後にまた同様な独白がある以上、それは、後期のウィトゲンシュタインの著作にはある種の「仕込み」が一貫して組み込まれてあることを意味するのではあるまいか。ウィトゲンシュタインは職人気質の哲学者である。古典学者の中に自らを「文献屋」と卑下する学者がいるように、ウィトゲンシュタインもまた自らの器用さを卑下するところがある。
1947年
『わたしのやっていることは、そもそも努力のしがいのあることだろうか。上からの光をうけとるときに限り、努力のしがいはある。では、努力のしがいがあるとするなら、どうしてわたしは、自分の仕事の成果が盗まれはしないかと、心配するのだろう。もしも、わたしの書くものが本当に価値のあるものであるなら、どうして、その価値のあるものが盗まれるというのだろう。上からの光がなければ、私は器用な人間にすぎないのだ。』
そして、器用さを欠いた哲学者(例えばベイコン)に対しては厳しいコメントがある。
1946年
『ベイコンは精密な思想家ではなかったのではないか。とわたしは思う。かれは大きな、いわば広大な、ヴィジョンをいだいていた。だがヴィジョンしかもっていない人というのは、気前よく約束はするのだが、実行力はないにちがいないのだ。』
『錠前をあけるようにと錠前師がきたえあげた鍵なのに』と言うとき、錠前師とはウィトゲンシュタイン自身のことであろう。そしてその鍵は「鍛え上げられてある」のである。後期の思想、「探求」の思想はまさに何かの「鍵」なのである。「鍛え上げられてある」という時、そこにウィトゲンシュタイン自身がある種の満足をもって到達した深みを感じることができる。しかし、その鍵は何であり、その鍵を用いて宝箱を開けるとそこには何があるのだろうか。
「信仰=情熱」をもって鍛え上げられた「鍵」なのである。しかし、それだけではない。それは精密な鍵でもある。また、その鍵はウィトゲンシュタイン自身によって「誰の力も借りずに」鍛え上げられたのである。あえていえば、思想的な影響をとことん排除しつつ鍛え上げられたのである。いや、思想的な影響を忌避しつつ鍛え上げたと言った方がいいかもしれない。忌避された思想とは何か。それはたぶん、ギリシア哲学とその派生哲学全体だと言ってよい。いわば西洋思想本流の思想的影響から無縁であることを貫徹したのではないか。従って、ウィトゲンシュタインの思想を読み解くとき、一般的な哲学タームを用いて理解することは、おおよそにおいて誤読に到る。従来的な哲学用語は彼の思想を読み解くための「鍵」では ?aいからである。
錠前師が置いた場所に、鍵が永遠に置き去りにされていることがある。錠前をあけるようにと錠前師がきたえあげた鍵なのに、まるで使われることがないのだ。
しかし、そういう「鍵」は可能なのだろうか。火星人には「ギリシア哲学=西洋思想」は無縁であろうが、「ギリシア哲学=西洋思想」と無縁な哲学は可能なのか。もちろん、東洋哲学はその一可能形態であろうとは思う。それに似た意味で、ウィトゲンシュタインにおいては旧約的ユダヤ教あるいは、ヘブライズムに依って立つ限りにおいて、ギリシア哲学とは「無縁」でよい。という確信を抱いていたのではないか。と思われる。そしてその完結としてのキリスト教の成立、すなわち「福音」によって、「哲学はそもそも不用」となっている。という確信さえ抱いていたと思われる。キリスト教の成立後になお、哲学が哲学として人の心を占めてきたのは、彼の「福音伝道者」としての観点からすれば、大いなる矛盾であったに違い ?aい。ギリシア哲学との融和の歴史が西洋のキリスト教の歴史でもある。がウィトゲンシュタインはその流れの川下にいるわけではない。あえて言えば「ギリシア哲学=西洋思想」に対峙しつつその誤謬を撃つための哲学として後期の思想は「鍛え上げられた」と言えると思われる。
ウィトゲンシュタインは宗教者として見た場合かなり激烈な篤信家であるように思われるが、ファナティックな説教師ではなかった。むしろ精密さを第一とする哲学者であった。だから、野蛮なヴィジョンを掲げて「ギリシア哲学=西洋思想」を否定し攻撃するような、そうした分かり易さを示すことはしていない。がしかし、特に後期の思想は全体においてそれを示しているように読める。数学に関するある種批判的な考察はアンチ=ギリシア哲学者としての本領発揮と見直すことさえできるだろう。
実は、今日、ちくま新書版の永井均著の「ウィトゲンシュタイン入門」を近所の書店で購入してきました。4.28に入手した同氏の「<私>の存在の比類無さ」という本におけるウィトゲンシュタインの独我論に関する記述に気になる部分があり、再確認の意味もあって、読み込んでみる必要性を感じたことが動機です。速読しての感想を言えば、世の中に数あるウィトゲンシュタインの入門書として書かれた本の中でも突出した充実度をもつものだということです。
さて、私が気になった部分というのは、<永井均>氏において、宗教あるいはキリスト教がどのような位置を占めているのか。という点でした。この点については同氏の最新の著作である「<私>の存在の比類無さ」ではほとんど触れられていないので、旧著ではどうか。という確認をする必要があると思われました。結局、旧著でもさして触れられていないように思えます。
ウィトゲンシュタインにおいて、独我論的な視点は、いわゆる前期後期を貫いている視点であることは確かだと思われます。ただし、それを逐一的に論証し、また変化や揺らぎなどの測定を行うことは容易いことではないので、ここまで可能な限り遠回りしてきました。ウィトゲンシュタインの思想を理解しようとした場合、彼の独我論的な感性の理解無しに通り抜けることは誤読に到るであろうことは、永井氏の指摘を待つまでもないことだと思われます。ただ、しかし、独我論というのは、結局の所、人間は絶対孤独の境遇にある。ということ以上のことを論証しないものだと私は考えています。すなわち、独我論は「人間の孤独とはどのようなものであるか」ということを説明する論理以上のものにはなり得ないということです。 ??から、人によっては、そこで留まれるであろうし(そういう人にとっては独我論の解明だけで事済むかもしれない)、人によっては、そういう場を超克したいと欲するであろうこと。「救済」あるいは「救い」への欲求はなにも、独我論的徹底を自らに課す課さないないに関わらず誰しも有する欲求であろうけれども(まさにその点にカルトがカルトとして意味を生じる間隙がある)、独我論を徹底し自らの孤独と直面し尽くしたとしても、それで「救済」への欲求が解消されるということにはならないのです。
「反哲学的断章」
P91 1937年
『......ところで信仰とは、わたしの胸、わたしの心が必要とするものを信じることであって、わたしの思弁する悟性が必要とするものを信じることではない。というのも、救われなければならないのは、わたしの心と、その情念---いわば心の血と肉---のほうであって、わたしの抽象的な精神ではないのだから。.....』
以上で引用した断片は、比較的長い断片の中の一部であるに過ぎません。従って、確かな文脈があり、そこからさらに断片を抜き出すことには問題があります。ただ、ここで長文全部をリタイプするのは面倒なのであえて省略しました。さて、ウィトゲンシュタインは理知的な思弁する「悟性」と「心=情念」とを分けています。左脳と右脳の役割の違いに対応しているとは、書いてはみたがそうはいいません(笑)。彼において、彼の哲学は悟性の働きによるものと読むことができます。信仰はむしろ心と情念とが欲するものであるとも書いています。悟性は救いを必要としてはいないが、心はそれを欲している。孤独の叫びを上げる心について悟性をもって記述すれば、それで「抽象的な精神」論としての独我論が成り立つけれども、それで心が救われるわけではない。と私は解釈します。
ウィトゲンシュタインの哲学において独我論が重要な位置にあることは確かではあるけれど、彼の思想の中では単に「孤独」という概念を説明するための論理であるに過ぎないように思われます。人前に立って哲学を行う哲学者としてのウィトゲンシュタインと自らの孤独と戦いつつ宗教的模索を続ける思想家としてのウィトゲンシュタインと、あたかも二人のウィトゲンシュタインがいるかのごとく私には感じることができるのです。しかし、それは、世に流布しているウィトゲンシュタインのイメージと私の抱いているウィトゲンシュタインのイメージとが乖離していることによるもの。実際のところ、ウィトゲンシュタインは二人いるはずもない。それに、彼の近くにいた人々に対して、彼は哲学者としての側面だけで接していと ??うことも事実に反するであろうし。
永井均氏の「ウィトゲンシュタイン入門」でも、なお、ウィトゲンシュタインの宗教者としての側面に対する配慮が希薄であることには一抹の寂しさを感じざるを得ません。永井氏は「語り得ぬもの」=「鍵」=「独我論」と考えているようだけれども、ウィトゲンシュタインの「思想」をこのような構図でのみ語るのは、おおよそ自身の問題意識の重力でウィトゲンシュタインの像を歪めてしまっていることのようにさえ思えます。少なくとも、永井氏の「入門書」では、ウィトゲンシュタインと宗教との関わりは全く見えて来ません。何故なのだろう。多分にニーチェの影響が見え隠れしているけれど(つまりニーチェ風キリスト教理解)、むしろ仏教的な伝統に乗った「無宗教な日本人」というパラダイムに引き連られているに過 ??ないのではないか。
「反哲学的断章」
P135 1946年
『きみが「神」という言葉をもちいるとき、その用法によって明らかになるのは、「きみがだれのことを考えているか」ではなく、むしろ「きみがなにを考えているか」のほうである。』
ウィトゲンシュタインの思想の理解を欲する場合、キリスト教と正面向かって対峙することは不可避であるように思えます。哲学を行うのであれば、おそらく、自らの文化伝統に関わる宗教と対峙する必要があるはずで、その文化伝統のパラダイムに飲み込まれて哲学はできないのではないか。自らの文化伝統を「叙事詩」として見据える眼力が必要であるはず(第三者的な外的な視点を「超越論的視点」と呼ぶことがあるが、認識論レベルだけでなく、文化論的な場合であってもそのような安易なカテゴライズはこの際拒絶することにしよう)、それを身をもって貫徹したのがウィトゲンシュタインだと私は考えています。すなわち、人間業としてのキリスト教には極めて批判的でありつつ神業としてのキリスト教をそこから弁別し受 ??入れることには情熱を傾けた宗教家。自ら哲学者を自称しつつも、先達からの思想的影響を徹底的に忌避し続けた思想家。そういう視点こそが重要だと私には思えるのです。(だからといって、私個人は「福音伝道者」では決してない)
P.S. 永井均氏の近著「これがニーチェだ」には氏の「キリスト教観」「宗教観」が予想に反して赤裸々に頁を重ねて語られています。が、しかし、それらはおおよそにおいて赤面ものである。「青島だぁ」と言っていた人物が都知事などになってはいけなかったように、ニーチェをギャグネタにした哲学はいただけない。躁状態ノリノリの文章にはインパクトはある。しかし計算づくで受け狙いミエミエなのが残念なところである。あの軽さがどこから来るのかは言うまでもないことだと思える(98.7.3)。(^^;。
もうかれこれ一月も前になるけれど、NHKの教育テレビでバートランド・ラッセルの生涯を伝記的に紹介した番組が流されたことがあります。ウィトゲンシュタインの伝記でつとに有名なレイ・モンクもコメンテーターとして登場していました(ずいぶんと若いということが意外でした。ちなみに私はまだ彼の伝記は読んでいません。理由は....)。ここではあえて触れないけれど、ラッセル自身の人生の紆余曲折は、特に私生活においてのそれは想像を絶するものがあったようです(^^;。
さて、ウィトゲンシュタインとの絡みで見たせいもあり、とても驚いたことがあります。それは、ラッセルが第一次大戦に対して「反戦運動」を行い投獄されたことが契機となって、ケンブリッジの教授職を追われたのが1918年で、第二次世界大戦後、反核運動の闘志として脚光を浴びてケンブリッジに復職したのが1946年だということ。実に28年間という長い間、彼は文筆業を主とする市井の人であったということです。
ウィトゲンシュタインがケンブリッジに戻ってきたのは1929年、そして1946年までケンブリッジで講義を持ち47年の末にはその職を辞しているわけですが、彼がケンブリッジにいた「後期」と呼ばれる間、いわばラッセルとウィトゲンシュタインは机を並べることはほとんどあり得なかったということです。さらに、ラッセルは「論考」の序文を書いたことでも知られているけれども、実際に「論考」が出版された1919年の時点ですでにラッセルはケンブリッジを離れてもいたということです。ウィトゲンシュタインのリタイアとラッセルの復職とがピッタリ重なることを考えると、何らかの確執があったのかな。とはいらぬ邪推ですが。
「反哲学的考察」より
P131 1946年
『原子爆弾にたいして世論はいま、ヒステリックな不安をいだいたり、あらわしたりしている。「ついにここで効目のある手段が発明されたのだ」という合図に、その不安は近いものである。恐怖によってすくなくともなにが明らかになったのか。その手段が現実に効果をもつ苦い薬であるという印象である。「もしもここになにもよいことがないとすれば、俗物たちは叫び声をあげないだろう」と、わたしはどうしても考えてしまう。だがことによると、それもまた、子供じみた考えなのかもしれない。というのも、わたしがここで言おうとしていることは、せいぜい、つぎのようなものでしかない。つまり、「爆弾のおかげで、みにくい悪の、つまり石鹸のようにヌルヌルしていて吐き気をもよおさせる学問・科学の、終末が、破滅が、期待できるようになったのではないか」。このように考えることは、たしかに不愉快なことではない。だがしかし、「そのような破滅のあとどうなるか」はでれにもわからない。今日、爆弾製造に反論する人たちは、たしかに知識階級のあぶくである。しかしだからといって、「その人たちの忌みきらうものが賞賛にあたいする」ということが無条件に証明されたわけではない。』
この一文にラッセルの名は明示されてはいません。しかし、その46年という文脈からすれば、ウィトゲンシュタインは「ラッセル=俗物=知識階級のあぶく」と痛烈な皮肉・揶揄を露にしているとみなすことが出来るでしょう。実際、ラッセルは反核運動のさきがけとして評価・賞賛され、ケンブリッジに復職できたわけですし。それはラッセル個人にとって「よい」ことであったに違いありません。ということ。反核運動はその目的達成がどうであるか、その主義主張が正しいかどうかとは「無関係」にある種の経済効果をもたらすものです。それ故に実は反核運動とは何の関わりもない欲望の故にそこでのおこぼれ欲しさに声高める人たちがでてくる。そういう知識階級の人々が関わる学問・科学とは石鹸のようにヌルヌルで、吐き??を催す。
長崎・広島への原爆投下の事実認識から反核運動が盛り上がった46年のその運動それ自体に、むしろソドムやゴモラを見て取る。ということなのでしょうか。反核運動に対してウィトゲンシュタインが設定した距離はそっくりそのままラッセル個人に対する距離?。そしてそれを賞賛して復帰招聘を決定した大学当局への距離なのでしょうか。かくして翌年47年、ウィトゲンシュタインはケンブリッジを去ることになります。
反哲学的断章より(P.30)
1931年
『わたしがけっして近よらない問題、わたしの軌道あるいはわたしの世界にはない問題がある。西洋の思想世界の問題。ベートーベンが(そしてことによると部分的にはゲーテが)近づき、そして格闘した問題。しかし、これまで、どの哲学者もあつかったことのない問題(ことによるとニーチェがそばを通り過ぎたかもしれないが)。そしてことによると、この問題は、西洋哲学から抜けおちているのかもしれない。つまり、西洋文化のなりゆきを叙事詩として感じとり、だからこそ、それを記述できるような人物はいないのではないか。.....』
ニーチェは久しく読み返したことがないけれど、大昔、最初に岩波文庫版の「ツァラトゥストラ」を読んだとき、あまりに面白くて上下巻を一晩で読んでしまったことを覚えています。何が面白かったというより、次の頁に何か凄い事が書かれてあるのではないかという期待感だけで読み急ぐことができたということです。が、結局「答え」には行き当たることができなかった。これは、僕の読みの浅さもあるのかもしれないけれど、たとえて言えば、「シード・プレーヤーであるにも関わらず、決勝進出出来なかった」事への裏切られ感というようなものが後読感として残った。そういうことなのだと考えます。
ニーチェの本領は、価値観を相対化するための視座と方法論を大雑把ではあるけれど、幾つかの概念ツールを駆使して提示し得た。ということろにあるわけです。「ニヒリズム」や「ルサンチマン」とか「超人」、「力への意志」、「神は死んだ」等など。ただ、それらはどれも詩的で、精密な概念だとは思えない。論理的であるというより、恣意的な価値判断で乱高下するジェットコースターに乗っているような気分にさせられるものだということです。もちろん、それはそれで「恐いもの見たさ」的な体験をするだけの価値のあるものだということは確かなことなので、ニーチェにはそういう「戦慄への誘い」という雰囲気を感じるものだから、実に捨てがたいという感覚があります。
ニーチェは、それらの概念ツールを拠り所にして、眼前に広がる道徳的な価値観が充満し漂う社会=世界観と延々と死闘を繰り広げたわけです。ただ思うに、彼はそこで大凡の力を使い果たしてしまったのではないか。ツァラトゥストラが結局、山の庵へ戻らざるを得なかったように、決勝戦目前で引き分けてしまって、決勝進出できなかったのではないか。本来、決勝戦で「彼」と死闘を開始するための準備として始めた自己鍛錬としての思想であったのに。
ウィトゲンシュタインが先の引用で、ニーチェをゲーテやベートーベンと似たレベルにならべて評価しているのは、ニーチェの方法論が、基本的な部分でウィトゲンシュタインの方法論に相通ずるところがあるからです。それは、社会に根付く「思想」を相対化し社会とか頭中から引きずりだして対決対峙しようとする姿勢だと言えるでしょう。ただ、「通り過ぎてしまった」という時、ニーチェに対するウィトゲンシュタインの「棲む世界が異なる」という感じを窺うことが出来ます。ニーチェは「十字架に架けられし者」対「デュオニソス」という構図を考えるわけですが、ニーチェにおいての決勝戦はまさにその対抗図。でも、デュオニソスが対抗馬になりえるのかどうか。そもそも、このような、「構図としてだけなら「分かり???い」図式」にはまりこんで出口を無くしてしまったのではないか。と思えるところがあります。そこには、彼の出自が牧師の家庭であり、西洋古典文献学であったことの帰結によるところがあるはずです。西洋社会に根づく「道徳観」を相対化するために、ある意味で、一神教であるキリスト教によって放逐されたギリシアの古い神を持ち出すのは、イギリスの文化人のある一派がケルトの神々を持ち出すのと同じで、無意識的な民族ナショナリズムだと言えるかもしれない。日本人なら、八百万の神ないし仏教を担ぐのかも知れないし。等など。
この点では、ウィトゲンシュタインは古きユダヤの神を持ち出すしかなくなる。しかし帯出厳禁なので沈黙をもって対峙するしかない。というのがウィトゲンシュタインの選択した方法論。方やニーチェはデュオニソスを担いでも、ソクラテスやプラトン等を敵役にするだけなら意義があったのかもしれない。けれども、何かを担いで対抗することの無意味さを知りつつも、担いだものの重さで潰れてしまったのだ。たぶん。放り投げる前にその重さから逃げれなかった。ということだ。それは、ニーチェの用いた「概念ツール」があまりにニーチェ個人の想いに依存しすぎていたから。そしていつのまにか、彼自身自分の言葉の呪縛から逃げれなくなっていた。というわけなのでしょう。たぶん。
私にとって、ウィトゲンシュタインの思想というのは、延々と続く「決勝戦」としての思想だと思えるわけです。その点では、ニーチェの思想は、段階を踏んだトーナメント方式で、知力・体力・眼力を養い、とりあえず「社会」を相手にしながら足腰を鍛え、準備万全にっすることを第一としていたのではないか。それはニーチェの誠実さであり、純真さなのだと思えるけれども、たぶん、寄り道が遠回りになってしまい、気が付いたら抱えきれぬほどの荷物を背負っていた。のではないだろうか。
先日、ずいぶんと久しぶりに講談社新書版のウィトゲンシュタインの評伝を読み直しました。元々は法政大学出版局版から出ていた版で最初は読んだのですが、貸した本は戻らず。ということで数年前に古本屋の100円本で見つけて買いなおしたものです。マルコムの「ウィトゲンシュタイン」の評伝は1958年に出版されたもので、マルコムは1911年生まれなので47才の時の本になります。マルコムはウィトゲンシュタインの愛弟子であり、身近な人だからこそという生々しいエピソードが数多く語られているという点でこの本が必読本であることはいうまでないことです。そのマルコムの遺稿となった「ウィトゲンシュタインと宗教(邦題)」は1993年。前書から実に35年という時を経て彼の死後ピーター・ウィンチの手によって出版されたものですが、おそらくはもっともっと書き足すことがあったに違いありません。
マルコムは前書の中で、ウィトゲンシュタインの宗教観について、
講談社新書 P.88
『私は、ウィトゲンシュタインが宗教的信仰のようなものを持っていたとか ---事実彼はもっていなかったわけだし--- 宗教的な人間であったという印象を読者に与えようとするつもりはない。けれども、彼の中には、ある意味で宗教を肯定する可能性があったとは考えたい。自分自身はその中に入り込まなかったけれども、共感を持ち、かつ非常に関心をもっていて、宗教を「人間生活の一面」(これは『探求』の中で使った言葉であるが)として見ていたことは、たしかだと想う。..... 』
このマルコムの説明から、実際にウィトゲンシュタインとの交流を通して知り得たその雰囲気が伝わってくる。そのマルコムが言う「事実彼はもっていなかった」という「宗教的信仰」とは、おそらくはとても常識的なもので、単純に言えば「日曜日に教会へ行くという習慣は持っていなかった」程の意味だろう。たしかに我々は日曜日に教会へ礼拝に出かけて行く人々を「信仰を持っている」と考えることは自然であるし、そういう行為を伴わない人々を(キリスト教という観点から)無信仰であると言うことも用語法というレベルでは正しい。しかし、後者に属するからといって信仰を持っていないとみなすのは難しい問題がある。それはマルコムが同書で述べている通りです。
ここで思い出すべきは、ウィトゲンシュタインが「探求」の中で問題にした私的言語の問題です。「A」と名付け得る感覚はその個人の固有の感覚として保持され得るのかという問題。「探求」では例として医者の問診対象となるような「痛み」を採っているけれども、この例を「痛み」ではなく「宗教的な世界理解」というものに置き換えたらどうか。悟りは覚者に固有であり得るのか。情熱としての信仰は語り得るのか。と置き換えてみたらどうか。しかし、ウィトゲンシュタインはそういう問題の掘り起こし方とは無縁であった。「信仰」の問題が個人の内面の問題であるとされるにも関わらず、「信仰」を自らの哲学のまな板の上に直接置くようなことはしていない。にも関わらず「信仰」は私的言語の問題として十分に検討さ ??てあると読んでみてはどうか。
マルコムは「私は宗教的人間ではない、しかし、私は如何なる問題をも宗教的な観点から見ないわけにはいかない」というウィトゲンシュタインの言葉からウィトゲンシュタインと宗教との関わりを再検討することになったと言われています。この一文にある「宗教的人間」と「宗教的な観点」という表現で用いられている「宗教」という語は同じ意味ではないのは説明するまでもないでしょう。だとしたら、ウィトゲンシュタインは世俗的宗教の「信者」ではなく、いわば汎神論的な宗教理解に近かったのでしょうか。しかし、これはどうも嘘臭い。汎神論の抽象化された「神」という概念には固有名詞を持つ神と似た嘘臭さある。それは「あなたの痛みはよくわかります」という同情が醸し出す嘘臭さに似ている。
しかし、マルコムにおいても、どうしてウィトゲンシュタインの宗教観を晩年に至って考え直そうとしたのでしょう。これはこの一連のスレッドを書いている私の問題でもああるわけですが、少なくとも私において、ウィトゲンシュタインの宗教観は実に興味深いものなのです。ウィトゲンシュタインの哲学は信仰=情熱を保護するための鎧兜であると同時にそれはバッハのごとく「哲学の捧げ物」として書かれてあるということ。ウィトゲンシュタインの思想がもつある種の厳粛さに惹かれている。ということなのです。ニーチェとは違った意味での「祝祭」がそこにある。と言えるかもしれません。延々と続く厳かな祝典を前にすれば、だれも襟を正さざるを得ないでしょう。
マルコムの評伝には、ウィトゲンシュタインがドストエフスキーの「カラマーゾフ」を「数え切れないほど」繰り返して読んだ。という伝え書きがある。バートリーの評伝にも、トラッテンバッハ時代に同僚に何度も「カラマーゾフ」の話しを聞かせた。という記述があります。ウィトゲンシュタインにとって、「カラマーゾフ」は特別の位置を占めていた小説であった事だけは確かな事です。「カラマーゾフ」はご存知の通り、ドストエフスキーの数ある著作の中でも最大長編であり、あれを何度も繰り返し読むのは、ドストエフスキー通でもそう易々とできるわけではありません。しかし「数えきれないほど」彼は読み返していた。
なぜ、と問う前に、ウィトゲンシュタインの兄弟のことを考えてみよう。彼は男5人、女3人の8人兄弟の末弟であった。そして数多くの評伝が示している通り、長兄と次兄は自殺しており、すぐ上の兄パウルは第一次大戦で右腕を切断する大怪我を負っている。そしてこの事実のみが語られるだけで、そのような境遇をウィトゲンシュタインがどう感じていたのか。それを伝える記述はほとんどない。であるから、自殺した兄達をウィトゲンシュタインがどう思っていたのか。想像することしかできない。しかし、実を言えば、これを想像する事は私には不可能である。私の近親者に自殺者はいないしまして兄もいないのであるから。
1902年 長兄ハンス自殺 (13才)
1904年 次兄ルドルフ自殺 (15才)
1915年 三兄クルド自殺 (26才)
それでも、想像力の蜘蛛の糸を結びつけるものがあるとすれば、ドストエフスキーの「カラマーゾフ」。ウィトゲンシュタインの謎多き30代の愛読書である。悪業の血に染まったカラマーゾフの兄弟達。そしてフョードルという強辣な父親が織りなすプロットを、ウィトゲンシュタインは自らの境遇に重ねて読んでいたのではないだろうか。バートリーの評伝にもある通り、ウィトゲンシュタインが「カラマーゾフ」を熱心に読んでいたのはトラッテンバッハ時代。もちろん、それ以降も繰り返して読んだのだろうけれど、第一次大戦の前線から復員してきた後、「論考」の出版の目処をつけて、遁世してしまって後。なのである。時期的には兄弟の自殺の記憶の生々しい頃だといえる。そしてこの頃のウィトゲンシュタインの書簡では ?彼が悩み事で苦しんでいたことを伝えるものが多い。これを「ホモセクシュアル」を原因としたものだ。という説があるが、本当にそうであったのか。血のつながった兄達3人の自殺によって置き去りにされた弟の想いはそんなことだけでいっぱいになってしまうのだろうか。カラマーゾフの兄弟の末弟を思い浮かべること。アリョーシャ。兄弟の誰からも因業な父親からも愛された「宗教狂い」。誰の悪口も言わず、赦す人。
この種の話しは、おそらく、他人に話すような内容ではあるまい。しかし、なお、惜別感、罪跡感、宿命感、悲しみ、怒り、苦しみなど、諸々を生き残った者は背負わざるには居れなかったのであろう。しかも、それは発語できない言葉として。そうした発語し難い個人的な想いを抱え込んでいたウィトゲンシュタインが、ドストエフスキーに接して彼の小説に惹かれたのは理解できそうな気がする。まして、「カラマーゾフ」であれば、なおさらのことである。「カラマーゾフ」は大作であり、私の手には負えないが、カラマーゾフの主題である「親子」「兄弟」「金」「キリスト教」「聖人」「淫蕩者」「無神論」「キリスト(教)への疑念」「赦し」「癒し」といったドストエフスキーが提示したテーマにウィトゲンシュタインが?μめて熱心な親近感を持っていた事だけは確かな事だ。
ウィトゲンシュタインが私的感覚の言語化の問題を取り上げる時、それはただ単に歯の痛みのような例で考えていたわけではない。人間が生きていく上で抱え込む悩みごとは、そうした私的言語の領域に属する。それは発語し得るが理解されがたい。ドストエフスキーの大きさはそうした悩み事をいわば「カラマーゾフ」という語に集約し細々としたプロットを用いて精緻に描き切ったことにある。ドストエフスキーの職人的小説家としての精密さはウィトゲンシュタインを満足させるものであったはずである。そして精緻なるがゆえに、のめり込めたのではないのか?
ウィトゲンシュタインは生涯を通じて、故郷のウィーンの家族の元へ里帰りを繰り返していた。二次大戦中の数年を例外として、晩年ケンブリッヂを去った後アイルランドで「探求」の後半と格闘していた時でさえ。そして姉たちの死をも看取っている。ウィトゲンシュタインはよく「孤高の哲学者」であると言われる。なるほどそうであろう。しかし、だれよりも兄弟達を愛し想い懐かしむ人であったことだけは間違いない。そういう意味で、「カラマーゾフ」の兄弟達の会話に、彼は「失われた言葉」を見出して涙したに違いない。話をしたくても彼の兄達はすでにいなかったのだから。
ウィトゲンシュタインが「言語ゲーム」という基本アイデアに導かれたのは、マルコムの回想録によれば、ある日フットボールがプレイされているグラウンドのそばを通りがかったときに思い浮かんだインスピレーションによるもの。だということですが、それだけなら木からリンゴが落ちるのを見て「万有引力の法則」に思い至ったニュートンに類する印象を与えるだけで、あまり面白くない。ここでは、私なりの一つの仮説をスケッチしてみようと思います。
●家父長として絶対的な父親がいて、精神的にまた人生の選択を左右するような圧力が家庭内にあったこと。
●長兄ハンス、次兄ルドルフ、三兄クルドの3人の兄達が、おそらくルードヴィッヒにとっては「突然」という状況で自殺してしまう。このような衝撃を彼の思春期から青春期にいたる間に3度も経験させられたこと。この事件に対してなんらかの決着をつけなければならないと考えていたであろう事。
●若死への望みのもたげと第一次世界大戦での最前線での戦闘志願による「死」への引きずりが果たせなかったこと。若き遺書としての「論理哲学論考」。
●大戦後の隠遁とその中でのドストエフスキーへの傾倒。
●カラマーゾフ:父親殺し、人生を語り合う兄弟への憧れ。
●カラマーゾフ:叙事詩としての「大審問官」。[全ては許されている]というテーマ。
●死に値するほどの悩み。あるいは苦悩への異義と受容。
●ことばによって構成される自我:独我論。
●何を考え語るとも、言葉で全てが可能であり不可能だ。という実感。
三人の兄を彼らの自殺によって失った弟にとって、この衝撃に対する苦悩を引き受けること。それは単に身内の不幸を引き受ける。ということに留まってはいなかったはず。自身の生と死を凝視することも意味したに違いない。一次大戦では戦車や航空機などの大量殺戮につながる兵器の出番は二次大戦ほどには多くはなかった。従って膠着した白兵戦が延々と続いたという。毎日が敵と面と向かった人間同士の殺し合い。そういう戦争の最前線での戦闘を志願し、塹壕の中で書かれた「論考」。それは(悪魔に?)死に引き寄せられるようにしてたどり着いた死の淵で書かれた哲学書であった。自らの命と引き替えにするようにして書かれた「世界とは何か」という問題への回答。そして決着させたつもりであったはずが、やはり未解?±oであることに悩まされ続ける。たぶん、そういう小学校教師としての6年間を含むケンブリッヂ復帰までの10年間。ドストエフスキーの小説は彼に大いなる慰めになったに違いない。神学に入り込まずにかといって無神論に堕さぬまま哲学に続けることの可能性をドストエフスキーから学んだのであろう。ドストエフスキーは「全ては許されている」と語る。そして後年、ルードヴィッヒもまたことばにおいて何を語ることもできる。と「言語ゲーム」について語ったのだ。私にはそう思われる。そういう結論なしに3人の兄の死を肯定することは困難だと思われる。これは対照して読むに値するように思われる。
「ブレードランナー」というSF映画は今では屈指のカルト映画(人生とは何か?という問いに積極的に答えを出そうとする作品)として人気が高い。主役はハリソン・フォード演じるデッカードであるが、役の重要さという点ではルトガー・ハウワー演じるレプリカントのロイの役回りはこの主役をはるかに凌ぐ。作品の中の最大の山場は何と言っても、ロイがとタイレル社の社長と対決する場面である。ロイは自身を造った生命工学の天才を前にして今にも尽きようとしている寿命の延命策について様々に詰問する。そしてその解決策が無いと知るや、結局社長(父)を殺してしまう。この衝動をレプリカント・コンプレックスと名付けてみよう。この父親殺しの衝動(ただし、フロイトのいうエディスプス・コンプレックスとは母耀|aの存在は無関係という点が異なる)は、もちろんレプリカントだけのものではない。人間全てが同種の衝動を持つ。とまでは言い切れないが、信仰の有無に関わらず、少なくとも概念としての神を理解しつつ、神を無用であると言明する人々、「死」に対して「NO」を叩きつけたがる人々の心にはこの種のコンプレックスがあるといっていい。
ニーチェは強度のレプリカント・コンプレックスを有する人であったと思う。牧師であった父親の早死の影響は大きいに違いない。またニーチェの発狂のきっかけは、骨を折り、持ち主に撲殺されようとしていた馬をかばって彼が大泣きしたことだと言われている。ニーチェは多感な人であり、目前の「死」に対して過敏すぎるセンスを有していたのは確かなことだと思われる。
タイレル社の社長はロイに「限りある生を楽しむがいい」となだめすかすが、そうした言葉はロイの耳には入らない。その社長を殺すことになっても結果としてデッカードを助けるという反転に「ブレードランナー」という映画の意味がある。(ただし、エンディングについてはディックの原作とは異なるし、映画でも諸版があってそれぞれ異同があるので、定言できない。)
レプリカントのロイがそうであったように、「神殺し」を行いたくなる衝動を私は理解できる。しかし、自覚的に神殺しを行う場合、まず神は生きていなくてはならない。また「神は死んだ」という場合でも「神が生きていた」ことが前提になる。ニーチェの複雑さはこの点にあると思う。哲学は神殺しの凶器としての出刃包丁になり得るのだろうか? 私は思うのだが、哲学で自分の神は殺せても人の神までは殺せない。
独我論の哲学は、使いようによっては「神殺しのための凶器」となり得ると思う。しかし、どう使っても独我論では他人の神までは殺せない。他我と自我とはそれぞれ別世界に存在することを認めるのが独我論なのであるから。この意味で、独我論者が殺せる神は自身の神だけなのである。ウィトゲンシュタインの独我論では、神は「世界に現れない」のであるから、そもそも殺せない。(未完)
カラマーゾフの兄弟(新潮文庫下巻P.94)より
「あのね、コーリャ、それはそうと君はこの人生でとても不幸な人になるでしょうよ」突然どういうわけか、アリョーシャが言った。
「知ってます、知ってますとも。ほんとにあなたは何もかも前もってわかるんですね!」すぐにコーリャが相槌を打った。
「しかし、全体としての人生は、やはり祝福なさいよ。」
ウィトゲンシュタインは死の床にて『僕の人生は素晴らしかった、とみんなに伝えて下さい』と最後に語ったと伝えられている。カラマーゾフを読み直す中でアリョーシャとコーリャのこの会話から、ウィトゲンシュタインのこの言葉が思い出された。ただ、それだけの話だといえば、それだけの話であって、ウィトゲンシュタインが死の床にあってなお、ドストエフスキーを引いた。と言うつもりはない。
アリョーシャや、コーリャという人物像はドストエフスキーにとっての理想の写像なのであろうか? 私には少々把握しがたいところがある。アリョーシャは兄ドミトリーやイワンさらには彼らを取り巻く女性たち、その他の人々に対するナレーターを超えないように思える。浄化された視点で事実を語る。という視点から逸脱しない。ドストエフスキーの基本的なテーマである「苦悩を経て新たな生活を勝ち得ること」という意義をこの2人は自覚的に了解している。というより、いわば作家の代理人として作家の視点を体現し小説内で動き回るかのごとくである。この2人には年に差があるが、しかし良き友人たり得る。そう描かれている。しかしアリョーシャにも、コーリャにもまだ「生活」が欠如していると思える。ここに若干 ?R不足感を感じるが、それを「希望」と読み換えることでバランスがとれるのかもしれない。
アリョーシャも、コーリャも、自分自身の苦悩と直面する以前に、他者の苦悩を前にして彼らの取り得る最大限の努力を払う。宗教者としての権威を振りかざすのではなく、人間の取り得る行為としてなし得る限りのことをしようとする。コーリャは自らのなし得る限りの努力で幼い兄弟や仲間の面倒をみる少年として描かれている。また、アリョーシャといえば、年上の兄達やその婚約者達の苦悩を目前にしてそれにとことん付き合ってしまう。
ウィトゲンシュタインは、おそらくは、他人の「苦悩」にとても敏感な人であった。例えば、ドゥルーリーが職業の選択について誤ったのではないかという悩みを打ち明けたことに対するウィトゲンシュタインの手紙(ウィトゲンシュタインと宗教P213~216)にあるように、他人の悩み事に接した場合であっても、それを他人事に留めることなく徹底的に考え抜いて助言する労を厭わない人であった。このような姿勢の故に、彼には多くの弟子ができたのであろうし、彼の魅力の底流になっている。それは彼の哲学の基本でもあり、我々は残された著述の中にそれを感じざるを得ない。
ウィトゲンシュタインの哲学には、確かに「独我論」が底流にある。自我の絶対的孤独性を説明し得なければ、おそらく苦悩を説明できないことによるからである。しかし、独我論は、人間の孤独が何であるのかという説明しかできない。揶揄を含めて言えば、独我論者には「良いSEX」は不可能であろう。(^^; ということがいえるかもしれない。苦悩や喜びを他者と分かち合う。という素朴な感性に、実は独我論的孤独がすでに破堤している事実が見えるのはないか。独我論的知性は、その事実を「信じる」ことでしか乗り越えれないであろう。事実である。という表現と事実であると信じる。という表現とが紙一重である妙味がそこにはある。ウィトゲンシュタインの後期の議論の収斂する点の一つはこの点にあると言える。