このページでは、ウィトゲンシュタインの断章を集約した本、『反哲学的断章』の新版を主導テキストとしたコメントノーツを書き進めてみたいと思います。 このスレッドを始めるまでに、「ウィトゲンシュタインと宗教」や「倫理学講話ノーツ」といった一連の文章を書き綴りながらいろいろ考えて来たことを振り返ると、やはり最初に『論理哲学論考』を読んだ時のファースト・インプレッションがずっと頭から離れていない。ということに気がつくのです。それは、『論考』が表している記号論理学的な「整然」と神秘主義的・神学的な「茫洋」とが共棲していることに対するある種の違和感だということができます。それは私がウィトゲンシュタイン(以下LWと略す)の思想に違和感を覚えたということではありません。そうではなくて、事実あるいは世界、あるいは生を記述する試みが核心に迫れば迫るほど、それは「違和感」の表出としてしか他者には読み得ない記述となるのではないか。ということであります。そこで生じる二つの音叉の共振関係としての共感を今に至るまで感じ続けてきたということに我ながら驚きを禁じ得ません。(2000/4/1) |
福音書では穏やかに清らかに湧きだしている泉が、パウロの手紙では、ブクブク泡をたてているみたいだ。すくなくとも私にはそう思える。ことによると私自身が不純であるからこそ、パウロの手紙が濁って見えるだけなのかもしれない。しかし、こういう不純さが清らかなものを不純にしてはならない理由はあるのだろうか。どうも私には、パウロの手紙には、人間の情念が見るような気がするのである。それは、誇りや怒りといったものであり、福音書の謙虚さとは矛盾するものだ。なにしろパウロの手紙では、自分というものが強調されている - それも宗教的な行為として - ように思えるのだが、それは福音書には見られないことである。私としては、これが冒涜とならないことを願いながら、「キリストなら、パウロにどう言っただろうか」と質問したい。
だがその質問には、当然、このような答えが返ってくるかもしれない。「それはあなたにどんな関係があるのかね。あなたのほうこそ、もっと行儀よくするべきじゃないか。今のままじゃ、パウロの手紙にどういう真理があるのか、見当もつかないだろう」。
福音書の方が - これも私の感じだが - すべてが質素で、謙虚で、単純である。福音書が小屋なら - パウロの手紙は教会である。福音書では、人間はみな平等で、神みずからが人だが、パウロの手紙ではすでに、位階とか官職といったヒエラルキーのようなものがある。-と言っているのは、いわば私の嗅覚である。
1937 (P93~94)
いま自分が間違っていたことがわかったとドゥルーリーに話した。「福音書もパウロの書簡も共に同一の宗教なのだ。」
レイ・モンク『ウィトゲンシュタイン』下巻 P.597 みすず書房1994。