このページでは、ウィトゲンシュタイン(以下LWと略す)の『青色本』を主導テキストとしたコメントノーツを書き進めてみたいと思います。このノーツは他ノーツ同様あくまで雑記に過ぎません。解説とか説明とか、はたまた論文の下書きなどというものとは無縁な物書きであるということは念をおして言明しておきたいとおもいます。 1.個人的経験について(2002/1/29) ウィトゲンシュタイン全集第6巻『青色本』P.86いわゆる後期のウィトゲンシュタインの思想を特徴づける「大問題」があるとすれば、この「個人的経験」の問題であろう。この「個人的経験」を単純に「事実(認識)」と言い換えることができるならば、既にLWはそれを『論理哲学論考』で充分に考察していると言える。しかし、「個人的経験=事実(認識)」と言い換えることは文言的に無理があるのは明らかであろう。であるならなぜ「個人的経験=事実(認識)」と置き換えてはならないのか。客観的に表現される「事実(認識)」と主観的な表現でしかありえない「個人的経験」とは別の事柄であるとでもいえるのだろうか。 2.整理について(2002/2/3) ウィトゲンシュタイン全集第6巻『青色本』P.87この「図書館」の喩えでLWがいわんとするところは、3つのレベルに分けて見ることができると思う。第一には、一般的な喩えとして、前後の文脈から切り離してその喩えだけを見る視点だ。そこでは、哲学的な思索は無駄にはならない。仮に大問題が後日見いだされたとしてもまたそれが解決されたとしても以前の思索は無駄にはならない。と私は解釈できる。第二の視点は「青色本」の前後の文脈に準じて見る視点だ。個人的経験という視点なしでなされた思索は個人的経験という視点を含む思索とは別に扱うことができるし、また並べて扱うこともできる。個人的経験を問題としていないからといって、その思索・哲学が劣っているわけでもないし、それを含んでいるからといって、そうした思索・哲学が優れているというわけでもない。それはただただ、整理の仕方が異なるのだ。第三にはLWがいわゆる後期の思索を展開するにあたって、『論考』をどのような位置づけでみているか。という解説になっている。と読むこと視点があると思える。いわば、『論考』は「事実」と「命題」を対極に据えた二元論的な思索であった。だから、『論考』には「形而上学」的なことがら(倫理)は記述されなかったし、また思索の過程・場としての「個人的経験」が(心理学のように)問題とされることもなかった。 『論考』は哲学から「形而上学」の影響を排除するための「論」であった。その意味では、ケンブリッヂ復帰後のLWにとっていまだ捨てざる意義があった。しかし「個人的経験」と哲学との折り合いをつける「論」にはなり得ていない。「個人的経験」は「形而下」の記述で事足りる何かだ。だから『論考』でも十分議論できるはずの問題であった。それでは『論考』は不備な哲学書であったのだろうか。いや、そうではない。「個人的経験」という問題を扱う哲学書と『論考』とはある視点で整理するなら置かれる棚が違うのである。別の視点で整理すれば、それは同じ棚に並べられる。 ではどのような視点による整理が「哲学」に最終決着を与えるのか。 そう、我々はこの種の問題に対する「最終決着」というアイデアに今も昔も魅了され続けている。 |