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私的なPC史
私的なPC史
1975年 (2000/11/17)
私が最初にマイクロプロセッサに興味を抱いたのは、1976年の『トランジスタ技術』誌に掲載されたモトローラ社のMPU MC6800の解説記事だった。それまで『トラ技』誌の熱心な読者であったことはなかった。そしてその後も。ただ、当時はオーティオに熱を入れあげていて、トランジスタアンプの製作のための広告・カタログ的情報を得る目的で『トラ技』誌をたまに買うことがあり、たまたま目に留まったということだ。『無線と実験』誌では丁度「金田式オーディオアンプ」が流行っていた。私は子供の頃から、典型的なラジオ少年で、1966年にゲルマニューム・ラジオのキットを自作して以来、ラジオ→アマチュア無線→オーディオ→マイクロコンピュータという段階で対象を取り替えてきた。しかし弱電業界の周辺という意味では一貫していたと思う。
『トラ技』の連載は半年くらい続いたはずだが、結局私には全くちんぷんかんぷんだった。当時は法学部の学生で、デジタル回路の講義などがカリキュラムにあるわけもなく、それに趣味としての電気いじりもいわゆる「アナログ回路」がメインで、デジタルを理解する素地を欠いていた。それでも、アマチュア無線の資格を取ったのは小学生の時で、オームの法則とかの計算もそれなりに理解していた。ただ今思えば、デジタルとアナログでは電圧に関する見方や考え方が決定的に異なっている。さらに、回路全体の見通しも全く異なる。だから、同じ弱電業界の出来事と考えるにはあまりに世界が違っていた。
75年といえばオーディオブームの興隆期で、学生時代のアルバイトで稼いだ収入のほとんどをオーディオにつぎ込んだものだった。25ミリ厚のベニア合板6枚を切り出して2ドア冷蔵庫より大きいスピーカーボックスを自作した。これが最初のバイト代の使い途だった。ユニットはアルテック製のいわゆるA-7/800Hzの2way ユニットを想定したものだった。『無線と実験』誌に「オンケン型」BOXとして製作記事があったマルチダクトタイプの箱だ。アンプはそれまで家にあったビクター製の真空管式のレシーバー部分をオールインワンタイプのステレオ筐体から取り出して裸で使っていたが、プレーヤーを買うことで、イコライザーアンプが必要になり、このイコライザーアンプは結局真空管式のアンプを自作した。用いた部品はそれまでに溜め込んであったジャンクパーツでほぼ事足りた。12AX7などはごろごろと何本も持っていたので、McIntoshのプリアンプ(C-22?)の回路を参考にしてイコライザー部分だけを自作した。細かいことを言うとヒーターは直流点火式にしたのだが、電源の平滑コンデンサーの容量が20uF程度では不足で最初はノイズが凄かった。それでその10倍位のコンデンサーを附加してノイズを押さえ込んだということがある。
学生時代は4年間を通して、ほぼオーディオ関連の業界でバイトしていた。最初は新日本電気(後の日電ホームエレクトロニクスだが、今はもう無い)などの製造メーカーで実際の製造ラインや製品梱包などをやっていた。ただ工場は時間的な縛りがキツイので、夏期休暇とかのバイト以外ができなかった。「泳げたいやきくん」なんていう歌が流行っていた頃で、製造ラインは性に合わない。とも思った。その後は秋葉原やお茶の水の販売店で販売員のバイトをした。大半はレコードと書籍と飲み代等々で散財した。自宅通学だったから生活費を稼ぐという点から解放されてたことは幸せだったのかどうか。思い直すべき反省材料かもしれない。
渋谷のヤマハに行くたびに当時流行のシンセサイザーに触れた。なんといっても、Moogだった。欲しいとは思ったが20万以上する代物を買うだけの余裕はなかった。だから作れるものなら作ってみようと、シンセサイザーの回路構成などを独自に勉強したものだ。新日のバイト代の大半はシンクロの中古を買うために費やした。岩通の30MHz二象限のシンクロだった。とてつもなく大きな代物だった。741とか709とかのオペアンプを組み合わせてアンプを作ったり、8038といったインターシルの発振器ICをいじったりしていた。秋葉原の秋月ならぬ信越電機商会の世話になったのはその頃だった。ただ、結局、VCOを作ることが困難だったので挫折した。というのが本当のところだ。1V~5Vで5オクターブの対数曲線を維持するような発振器を作れないとアナログシンセは作れないということだ。この意味でアナログシンセサイザーは実を言えばアナログ回路技術の全てが投入されてしかるべき技術の結晶とも言えるべき製品であることが身をもって理解できた。その後登場するデジタルシンセサイザーはこのアナログ技術の困難さをデジタル技術で簡便に乗り越えるための解決であった。しかし、やはり決定的に異なる製品でもあるだろう。というのも、アナログシンセサイザーの発振器はアナログ発振であるので発振回路素子の組み合わせに基づく固有の倍音(歪み)を含む音なのだが、デジタル発振はそのものズバリの発信音しか持たない。倍音が欠落しているという点で面白みが少ない非個性的な音しか作れないと言うことだ。
1976年 (2000/12/1)
1976年は、秋葉原のオーディオ店でバイトをしていた。学生だったので土日中心で、倉庫番みたいな仕事だった。商品が売れると店まで在庫を持っていくのが私の仕事で、時にはメーカーの営業所まで引き取りに行くようなこともやっていた。だからあのエレベータは日に何十回も乗り降りしていたことがある。
その店の倉庫はラジオ会館の7階にあった。フロアのほとんどが階下のショップの倉庫に過ぎなかったからこの年のラジ館7Fは殺風景なフロアだった。その年の暮れ、倉庫のあったセクションのちょうど反対側に「ビットイン秋葉原」がオープンした。店内の新装工事をやっていたことは良く覚えている。開店したのは11月か12月だと思う。ボーナス時期だったので会社勤めのエンジニアとおぼしき人たちを7Fで何度も見るようになった。そしてあの有名なTK-80を山のごとく抱えた搬送業者の人と何度もエレベータで一緒になった。あまりに頻繁に会うので一度「凄く売れてますねぇ」と声をかけたことがある。「ええ、大変ですよ」というような会話をしたように覚えている。彼は紐で結いた10箱を片手に合計20箱づつ手で何度も持ってきていた。TK-80はまさにブームになろうとしていた。でもまだ、子供や学生の来るような場所ではなかった。
後に日電の代理店で仕事をするようになったとき、つき合いのあった日電のエンジニアにその当時のことを話すと、「土日も無しに、ビットインにkit修理のため詰めっぱなしだった」という話を聞かされたことがある。そう、TK-80は手作りKitだったのだ。
その年の夏は、自宅から比較的近い町工場で、CB無線機のチェックとか箱詰め梱包のバイトをやっていた。CB無線機はその当時の大ヒット商品だったが、米国向けの輸出商品がほとんどだった。日本国内でもCBバンドは利用はできたが、高出力の無線機は禁制品であった。その業界の勇はサイバネット社で、米国向け輸出で急成長していた。工場は川崎の中原のあたりにあった。その工場(たぶんサイバネットの下請けだった)で作られていた無線機はチャネルの数だけ水晶発振子を実装するタイプだった。翌年には、PLL制御ICのおかげで水晶発振子はあまり要らなくなった。そして翌々年の米国FCCの規制強化がなされてそもそもCB無線機は売れなくなってしまった。サイバネット社は結局京セラに身売りした。PLL等のICについては、最後は「土に埋めた」ということをそのICの納入に関わった同業者から聞いたことがある。
この頃は、ICという商品が無茶苦茶面白い時期だった。デジタル時計や周波数カウンター用のIC、さらにはTVゲーム(ピンポン的な白黒ゲーム)用のICなど、ロジックICだけで作るとかなりの個数ICを必要とするような回路を1個のICで置き換えてしまうような特定用途向けのICが沢山出回っていた。三端子の安定化電源IC等もそのひとつであった。それまでは目玉のような形のパワートランジスタとツェナーダイオードの組み合わせで安定化電源は作ったものだけれど、それが三端子になってしまったのだから簡単だなぁと思ったものだ。70年に無線局を開局した際に使っていたTRIOのTR-1100という50MHzのトランシーバーのための電源はそういう純粋ディスクリート部品だけで自作したのだった。秋葉原の信越電機商会が小さなプリント基板と抵抗・コンデンサとセットにしたキットで受けに入ったのもこのころだ。
76年にはパソコンという語はまだなかった。マイコンという語もなかったと思う。モトローラはMPU(Micro Processing Unit)と言っていたが、IntelはCPU(Central Processing Unit)と言っていた。マイコンという語が一般化したのは安田寿明が(確か77年に)書いた「マイクロコンピュータ入門」という講談社のブルーバックスの一冊の故である。そこで彼は「マイコン」を「My Computer」の略であると書いている。この表現には時代を撃つセンスがあったと思う。その当時のコンピュータ業界はIBMが君臨してた時代で、コンピュータとは空調室に鎮座まします仏壇のような代物であると考えられていた。だから誰もコンピュータを個人所有しようとは考えもしない時代だった。ラジオ会館の7F押し寄せるようになった大人達には静かな熱気があった。単なるオーディオマニアにしか過ぎなかった私にさえ、それを感じることができた。
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