通常バージョン |
ロングバージョン(イントロ部分のみ) |
放映番号 | Title(English) | タイトル |
---|---|---|
1 | Arrival | 地図にない村 |
2 | The Chimes of Big Ben | ビッグベンの鐘 |
3 | A B & C | AB&C |
4 | Free For All | 我らに自由を |
5 | The Schizoid Man | 暗号 |
6 | The General | 将軍 |
7 | Many Happy Return | 皮肉な帰還 |
8 | Dance Of The Dead | 死の筋書き |
9 | Do Not Forsake me, Oh My Darling | 思想転移 |
10 | It's Your Funeral | 反動分子 |
11 | Checkmate | チェックメイト |
12 | Living In Harmony | 悪夢のような |
13 | A Change Of Mind | 転向 |
14 | Hammer into Anvil | No.2旗色悪し |
15 | The Girl Who Was Death | おとぎ話 |
16 | Once upon a Time | 最後の対決 |
17 | Fall Out | 終結 |
プリズナーNo.6では、最後まで明らかにされない事柄が2つあります。それは
・No.6の諜報員辞職の理由、
・No.1は何者であるのか
という2点です。全17話のエピソードは、この2つを明らかにするための徒労を骨格として組み立てられていると見ることができます。そしてそれは最後の第17エピソードでも結局は解説されずじまいであるかのように見れます。No.6はなぜスパイを辞めたのか。そしてNo.1とは一体何者であるのか。
私なりの答えを最初に言ってしまうと、まず、No.1はTV番組の視聴者。そしてNo.6の辞職理由はNo.1である視聴者を番組につなぎとめるためのトリックです。構図だけを言えばとても単純だと思えるのですが、17のエピソード全体がこの単純さを覆い隠すような暗喩的なおもちゃ箱になっていて、「木を見て森を見ず」という諺の通り、No.1は最後までプリズナーNo.6を理解できず見失ってしまうような迷路になっています。仮にこの構図通りだとしても、それが「解答」で終わるわけではありません。というところに面白さがあると思えます。
最終エピソードでNo.6はNo.1に会見する権利を得てNo.1に会いに行くと、そこにはTVで「プリズナーNo.6」のおきまりの台詞、
I will not be pushed, filed, indexed, stamped, briefed, debriefed or numbered. My life is my own.
とともに番組終了時に毎回繰り返し流される鉄格子に閉じられるNo.6の顔の画面が映し出されます。そして、それを見ているのがNo.1。しかし仮面を剥ぎ取ってみるとどうもNo.6当人のコピーのような....。実にミステリアスなのですが、No.6とNo.1は一種のダブルミーニング。No.6もTVでこの番組を見ている限りにおいてNo.1なのだという種明かしがなされているのです。実は、1969年当時NHKが放映した時、この鉄格子にNo.6の顔という番組終了シーンが毎回削られていて「次回はxx。お楽しみに」とかいうテロップが流れるだけでした(最終回だけは最後まで放送されたはず)。従ってこの種明かしを種明かしと理解するのは難しいと思えました。だから世評では意味不明な結末という感じが漂ったようであるし、No.1であるはずの日本の視聴者の多くが「意味不明」な印象を受けたのではないでしょうか。
最終エピソードでは、「反逆」の3形態が図式的に解説されています。
・組織にあって権力を得つつ反逆を行う者(No.2)
・無軌道にただ力任せの反逆を行う者(No.48)
・理知的に内省的に反逆を行う者(No.6)
反逆、あるいは反体制という語はもはや死語です。か? 「No.1 = 視聴者」に対し辞職理由を遂に最後まで明かにしないまま村を破壊しロンドンの街に消えたNo.6を含む彼ら4人。彼らは我々であり我々は彼らである。という散骨葬のようなさわやかな結末。TV番組制作者にしてみれば視聴者や視聴率は厳然たる体制そのものであり、まさにその体制に挑戦するがごとくの反体制、反視聴者的な構成で番組が成立したのは時代のなせるわざだったのだと思います。
マッグハーンの俳優としての場は映画のスクリーンやTVであるというより劇場の舞台。舞台志向の俳優であることは彼の来歴を見ればわかることです。第16話の最後の対決で、No.2がシェイクスピアを引用しています。
All the world's a stage
私の考えでは、No.2は舞台制作側を総代表するアイコン。(従って、第4話の「我らに自由を」でNo.6がNo.2になっても何の実権も得られなかった、なぜなら、舞台は舞台であり仮想空間だから)上記の台詞は並みいるNo.2の台詞としては最高の台詞。No.6にとっての舞台への入り口は「拉致」であり、そして舞台である村に監禁されてしまう。人間もまた産婆に取り上げられてこの世に入り、そして出口(死)に到るまでの間を「人生」とよび、その意味を捜し続ける。意味を見いだし得なければそれは「死」で終わる。そして始まるのがプリズナーNo.6全話の総括としての「人生の意味」捜し。「No.6の辞職理由」は「人生の意味を探すこと」のアイコンであるといってもいいかもしれない。舞台と人生とはダブルミーニング(またはダブルイメージ)として語られているわけです。第16話「最後の対決」このようなシェイクスピア的な引用に満ちた「劇中劇」になっているのは、いかにもイギリス的というか、凄く好きなのだけれど、でも、舞台の中では所詮、解答は得られない。では、人生の中で解答が得られるのだろうか?
And all the man and woman merely players
They have their exists and their entrance
And one man in his time plays many parts
His acts being seven ages.
William Shakespeare.... he summed it all up, so they say.... At first the infant, newling and puking in the nurse's arms... be still...Even as a child, there is something in your brain that is a puzzlement. I intend to discover it. A, find missing link. When I have found it, I will refine it, tune it and you will play our game. B, put it together, and if I fail... then C, BANG !
終わりに近づいた舞台で、No.2は劇中人として最後の努力を払って「意味捜し(ただし、それは彼にとっては他人であるNo.6の人生の意味)」をおこなうけれども、結局「正解」は得られない。そしてあっけなく「死」。劇中人物として死ぬわけです。17話の「終結」では生き返るけれども、彼はNo.2として生き返るわけでなく、いわば「役を終えてメーキャップを落とした」人物として生き返る(He said "生まれ変わったようだ!" )。レオ・マッカーン演じるNo.2は合計3話で登場するけれども、単にNo.2の役柄を演じるだけでなく、最終話で解放されるという点に意味深いものがあるように思えます。パンクを先取りしていたようなNo.48も同様。最終話は将棋対局番組の棋譜解説のような「解説編」(といって単なる解説にしないところがいいのだけれど)。 |
最終話「終結」はFallout。この" Fallout "というのは舞台の照明を落とし、大道具や小道具を片づけ、スタッフ一同「ご苦労様」と労いをかけて舞台から去るという意味だと捉えたらどうでしょう。17話はこの意味で、「物語」をリアリティというバニシングポイント(消点)に向けて収斂させ消失させようとする意図的な物語であるといえます。だから舞台と実世界との境界線を示すアイコンであった「白い玉 ( Rover )」は水の中で消されてしまう。それをもって舞台と実世界との境界線は消失し仮想空間としての舞台はまさに仮想世界として消えることになる。村=舞台が消失すれば、エキストラ達は村=舞台から去るしかありません。それゆえ、観客や視聴者であるNo.1はどこかへロケットでぶっ飛ばされてしまう。(帰宅するあるいはTVを見終わった観客がどこへ行こうが演技者にとって関知すべき事柄じゃないでしょう)そうやって、各々が各々の出口から出ていくのが最終話なのです。 |
もう一つ、あの背の低いバトラー(執事)ですけれど、彼もNo.6に同行して最後はロンドンの街中にNo.6と共に部屋に消えるわけですが、これは「希望」なのです。接点だけはあるがなんら関わりの無いはずの他人と手を携えて実際の生活を再び始めようという希望。彼が愛する若い女性の形をしていたらもっと分かり易かったかもしれない。しかし、彼があのように小人であればこそ、より強烈なインパクトを私は感じ取らざるを得ません。 |
ということで、以下にプリズナーNo.6に出てくる主なアイコンの一覧とメタフォリカルな意味内容を簡単にまとめておきます。
アイコン(劇中人物・道具) | アイコンが意味する内容 |
---|---|
村 | 舞台、この世と呼ばれる実社会 |
白い玉 | 舞台と観客、TVと視聴者世界との境界、知の限界 |
No.1 | TV視聴者、舞台観客、人間 |
No.2 | 制作者の総代表、権力、体制 |
No.6 | 主役、私、自我、自己意識 |
No.6の辞職理由 | 自由、人生の意味 |
背の低い執事 | (村にも実世界にもいる、No2にもNo.6、誰に対しても)接点があるだけの他人 |
ある物語を語り、同時に別の物語をも語り込んでしまうという手法。あるいは、一つの表現に2つ以上の意味を持たせ、例えば先日他界された丸山真男氏のタームであった「アンビバレンツ(二律背反)」な状況を一表現に収斂させてしまうような表現。そういう表現のスタイルは60年代知識人の特徴的なスタイルであったと言えます。映画「イマジン」だったか、ジョン・レノンも自身の詩作について同様なことを言っていたように記憶しているのだけれど、60年代のスタイルじゃないかな。ただ、それ故に、というか、そういう「意味の病」という悪病に冒されている。なんて言うことも実はあり得るのであって、一言で「暗いわ、あなた根暗ね」などと、「意味への志向」が忌避されたのが80年代だったのかもしれません。以下に、ユリイカの97'8の別冊「宮崎駿の世界」で60年代初頭に学生時代を過ごした宮崎駿が山口泉なる「おフランス」な人物との対談で語った部分を引用。
僕らの学生時代には「ダブルイメージ」なんていう言葉が流行っていたんだけれど、ある物語を作って、そこに現代社会に対する批判とか風刺をこめるという、そういう手法が結構流行ったんです。でも、それは自分もちょっとやってみて、ダメだと思いました。この映画の描いている外側にいっぱい見えない世界が拡がっていて、それによってその世界が保証されているというか、存在しているんだという考え方で映画を作らなきゃ駄目だと。その舞台で動いている力学は、外の力学からもちゃんと影響を受けていて、外の世界とも連絡を取りながら動いている人物としてそこに存在しているんだということをやらなくてはいけない。 あの映画(もののけ姫)で言いますと、それはジコ坊ですが、ジコ坊というオヤジはただの現場の管理職みたいなもので、組織の一員です。その組織というのはどういうものか知りたい。どうして教えないんだ。なぜ映画で描かないんだと。そこまではっきり言わないけれども、そういう疑問がスタッフから聞こえてくるんです。師匠連って何者ですかとかね。でも、それは説明する必要はないと思うんです。僕はそのスタッフに、君は徳間書店の傘下にあるスタジオブリというところでずーっと働いてきたけど、徳間書店が何をやってるか知ってるか?徳間書店の中でどういう会議が行われて、誰が決定しているのか知らなくても全然平気なのに、なぜ映画の中のことだけは気になるの?世の中というのはそういう力で動いているじゃないか!と言い張りましたが。実はそういうところを描くのも、ただのくだらない労力だったりするんです。もっと簡単なパターンになるだけで、映画を膨らませることにならないんですね。 |
ダブルミーニング、ダブルイメージ。そうした表現文体は良くできた作品には必ず見られるものであって、悪い文体じゃないと私は思うけれども、失敗すると作為ふんぷん臭ってしまうことになりかねません。この意味で、私はいわゆる「芸術志向の映画」は観ません。ただ、ユニゾンで進行する物語は逆に救いようがないとも思えます。特に物語りが物語の中で閉じてしまっているような、例えば出来の悪いホームドラマのような作りでは見る側のイメージもそのスケールで閉じてしまうからです。
プリズナーNo.6の文体では、例えばNo.2が「村=舞台」のTOPじゃない。という意味で、宮崎が言うような外界(=No.1)との接点を保っていること。その外界を例えばNo.1はクレムリンの誰か。みたいなヤボったい分かり易さを拒絶しているところ。そこが30年という年月を経てなお、No.6が議論に耐え得る作品になっており、もはや古典の仲間入りを果たそうとしている根拠じゃないかなぁ。
「ジコ坊 = No.2」説、などとは言わないけれど、「村=舞台」というあれだけの仮想空間の存在感がなぜ立地しえるのかを説明するとき、「ポートメイリオン」のリアリティだけがそれを担保しているんじゃない。No.6は幾つかのストーリーの中で仮想外界(村の外)に出るけれども、そうしたエピソードは事の本質と全く無関係であることがきちんと表現されているし(結局村に帰ってくるでしょ)。
No.1(つまり視聴者自身もある意味で村の住人/関係者なのである)を介して、また最終回のロンドン散解という融けて霧散する消えた境界線では番組とリアルとの境にはならない。という意味で外界と接しているんだ。ということです。
視聴者がNo.1である。という根拠は、あの番組を見ている人なら誰だって、No.6がなぜスパイを辞めたかということを知りたいと思うわけです。だってそうでしょ? そう1度でも思えば、No.6はいつかはそれを自ら暴露して種明かしをするはずだと視聴者は思うわけでしょう? ほら、ご覧なさい、すでにあなたはNo.1になってしまっているわけです。ということ。
No.6は絶対に辞職理由を言ってはならないし、言わないのです。それはLW的に言えば「語り得ない何か」であるのかもしれませんが、まぁそこまで我田引水しなくてもいい。ある種、個人主義の徹底はそういうことである。あるいは人生の意味ということは一人称の語りの中でしか語ることが出来ない何かである。それは他人に語るような類の何かではない。と言い換えることもできるかもしれませんね。
TVは片方向のコミュニケーションしかできないメディアであるけれど、視聴者をこのような形で巻き込んで双方向コミュニケーションを実に知的だけれども風変わりな次元でこの番組シリーズは実現したのだといえます。さらにユーモア溢れる例をあげておきましょう。シリーズの中で何度もNo.2がNo.1に電話するシーンがあるでしょう? そのシーンでNo.2が話しかけているNo.1はどこかの他人ではなくて、「一般的な視聴者」としてのあなた(私)自身なのだということです。舞台人には「客いじり」は禁じ手だといわれるけれども、それでもなお、舞台は観客と演技者のコミュニケーション・バトルの戦場なのである。とすれば、ここで用いられている表現手法としてのダブルミーニングは完璧に「隠蔽された客いじり」であると思えます。だから、プリズナーNo.6のストーリーが意味不明という風評が定着すればするほど、それは大成功であり、かつ同時に理解されていないという意味で失敗作でもあるわけです。という意味で、この作品は傑作でありまた失敗作である。ともいえるかもしれません。
007シリーズなんて、そういう意味では、話そのものはワールドワイドだけど、映画の中に全てが閉じているし。だから安心して解釈がどうのこうの言うことなく単なるエンタテーメントとして見れるわけですけど。
I | 私 |
1 | 数字の1。No.1 |
eye | No.2が睨みつけた眼。視聴者、オーディエンス、良心、神 |
I , I , | No.6がスピーチしている際の評議員のヤジ。他者の本質的側面の片方。 |
I , I , I , I ... | けたたましいあのメロディ |
扉の番号(最終カット) | 閉じた扉に記された番号 1 |
アイ・アイ・アイなヤジ |
shattered visageライクな最終話image |
最終話予告編 |
road to London on X-mas |
若さ故の反逆:No.48の場合 |
●「辞職」あるいは「卒業」(尾崎豊)(2004/5/31)
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キアヌ・リーブス主演の『マトリックス』の1カットにNo.2が写っています。また、『マトリックス』についてはこちら。 |
プリズナーのビデオで現在私が所持しているのは1,2と15,16話の4話分だけしかもバンダイ版の字幕版。それ以外は最後に再放送を見たのがたぶん72年頃だからおお、25年も見ていないことになるのかな。げっ。四半世紀。殆どのエピソードのイメージはそういう過去の記憶に基づいているだけで、細々とした部分を覚えているわけではないのです。ただし、72年の再放送時の15,16,17話の録音テープはかろうじて残っています(いわゆる初期のカセットテープで、録音自体は5インチのモノーラルのオープンテープで行ってダビングしたもの)。再放送は2ループは見たはずなので、合計で3ループ。でも、再放送の初回というのはたいてい見損ねてしまうものなので、それでバンダイがNo.6のテープを出したときに、1,2話のテープだけは買ったんです。全部買うつもりでいたけど、1本13,800円では難しいですよね。10万以上かかるわけだし。全ストーリの中で一番のお気に入りは15話「おとぎ話」。その時点での話で、今全部見直したらたぶん違ってくるかも知れない。レンタルビデオ店でもそれを全部置いている店は、僕の知る限り、10年以上営業している古い店でないと駄目で、下北沢のドラマとかいう店にはあったのを覚えているけど85~86年頃の話。今もあるかどうかは未確認。 |
英国で『プリズナーNo.6』が最後に再放送されたのは1992年。これは、このDVDのBoxセットのコメントとしてamazon.co.ukのページ書かれていました。私が最後にNo.6の再放送を観たのは1971年か1972年。奈良に住んでいた当時UHFの地方局が放映した時のこと。それから実に30年近く手持ちのビデオ以外では観たことがないのです。それに再放送の時でさえ確か白黒TVで観たはず。 ・東北新社版の日本語版のDVDは英国CARLTON社のDVDマスターを採用している。実は、最終3話(おとぎ話、対決、終結)三話分の音声録音テープが我が家には残っており、それにはDVD版では英語+字幕になっている分もちゃんと日本語になって残っているのです(2002/2/2:再確認しました)。だから逆に言えば、この音声テープを利用すれば、最終三話分だけは字幕なしの完全日本語版を再生できるかもしれません(正確には二話分だけ。最終話の冒頭部分の16話のダイジェスト分の吹き替えが欠落してました。これはたぶんダビングしそこないか録音しそこないと推測)。ちと遅いけど、東北新社にかけあってみるかなぁ。このテープ音声は、そもそもはモノーラルな家庭用オープンリールデッキで録音した物で、現時点ではカセットにダビングしたものしか残っていません。が、実家を探せばオリジナルのオープン・テープもあるかもしれません。なにせ30年も前のことなので僕自身よく覚えていないことなのです。 あと、この件から思うに、国内LD版は何をマスターにした版なのだろうか。ということがあります。LD版は見たことがないので私にはわかりません。が、おそらく、日本語吹き替え音声は現DVD版と同一なのではないか。少なくとも、NHKが初回に放送した版はフルサイズ版であったことだけは、音声録音テープの故に実証できます。ううむ。 村田さんの掲示板で話題になった「不適切な表現」の音声削除は事実です。この録音テープの「おとぎ話」の最後の方で「ナポレオン狂い」の敵役が6に、「私のことをどう思うか?」と訪ねる場面がありますが、このときDVDの6は口を動かすだけで何も語りませんが、録音テープの中では「基地外」と発音しています。 これらのことで明らかになることがあるとすれば、NHKの初回放送時の吹き替えはオリジナルのフルサイズをまさにそのままに翻訳・吹き替えして制作されている。ということです。だから、東北新社版のDVDの解説書の巻末にある「原版上の都合と日本国内での放送時に吹き替え版が制作されなかった為、一部音声が途切れる箇所がございます。」という記述には若干の事実誤認が含まれているということができるかもしれません。 Once upon a Time(最後の対決)の冒頭、No.2の語り(mp3音声ファイル) |
・ブレイブハート(1996:Braveheart)
プリズナーNo6で主役と主要なエピソードの脚本・監督を務めたパトリック・マグハーンが出演した作品リストの中で最も有名な作品は、メル・ギブソンが監督・主演し、1996年、第68回アカデミー賞を最多5部門(作品、監督、撮影、音響効果、メーキャップ)を獲得した「ブレイブハート」でしょう。ここで彼はイングランド王”ロングシャンク”エドワード王を演じています。いわゆるKing's English風の歯切れの良い台詞回しはさすが。プリズナー以降の彼の役歴からすると、ある意味でほとんど「無名」に近い感じを受けるのですが、たぶんキャスティングを仕切ったはずのメル・ギブソンが大のファンだったのじゃないか。そんな感じがします。なんといっても、アカデミー賞を5部門も獲得した程の作品ですから、敵役とはいえ大役エドワード王の役はジーン・ハックマン級の役者が演じてもいいのにと思えるのですが。
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・北極の基地 潜航大作戦(1970:Ice Station Zebra)
このアリステア・マクリーン原作の東西冷戦での軍事スパイ・ストーリで、彼はまさに謎のエージェント、デビッド・ジョーンズを演じています。ロック・ハドソン演じる潜水艦の艦長や、アーネスト・ボーグナイン演じるソ連からの謎の亡命者等など。プリズナー直後の映画出演という点では一見の価値有り。
・アルカトラスからの脱出(1979:Escape from Alcatraz)
ここでも敵役。監獄のトップという役柄でした。極悪非情の看守長という役柄なのでしょうが、いまいち極悪にも非情にもなり切れていないのがバツですか。
・刑事コロンボ
マッグハーンは刑事コロンボのシリーズの3作品(1990:Agenda for Murder, 1975:Identity Crisis, 1974:By Dawn's Early Light)に出演しそのいくつかでディレクトを行っています。
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・レオ・マッカーン(Leo McKern) No.1の全権委任を受けてNo.6の辞職理由を調査・取り調べを行い全て失敗したNo.2の諸氏の中でその後、他の映画の中で出会ったことがあるのは、第2話と(2度目の任務なんだ....)最後のNo.2を演じたレオ・マッカーン(Leo McKern)。彼はルトガー・ハウワーとミシェル・ハイファーが主演したヒロイックファンタジー作品である「レディー・ホーク」の中で黒魔術によって引き裂かれた二人を運命的に再び結びつける破戒僧の役どころを演じています。ブレードランナー後のルドガー・ハウワーにとっては最良の作品じゃないかと思っているんですけど。 |
・プリズナー トーマス・M・ディッシュによる小説版のプリズナーNo.6は、いわゆる「原作」ではありません。TVシリーズが先にあって、そのノベライズの権利を買ったAce Books社(SFのペーパーバック専門の出版社)が人選を行った上、後から書かれた作品。この作品に関して言えることは、TVシリーズとはほとんど無関係なストーリーだということ。ある種のミステリアスな雰囲気というかアメリカ的なカフカ・イメージ(なんてあり得るのかどうか?)な作品だということです。そういう意味ではNo.6の本名は「ドビン・ソープ」であることの是非も含めて、トーマス・M・ディッシュのプリズナーであり、マッグハーンのプリズナーではない。と言えると考えます。 |
・The Prisoner (W H Allen & Co plc, 338 Ladbroke Grove, London W10 5AH Alain Carraze & Helene Oswald ISBN 0-86369-557-4 現時点で私がこのPageを作成するにあたり基本資料としている種本。数年前、Prisoner No.6のLDのセットが販売されていた頃、六本木の「青山ブックセンター」にLDのセットに並べられていたのを見つけて買ったもの。LDのセットも欲しかったけれど、3分冊全部だと4万以上したのかな。手が出ずに本だけ購入。4680円。冒頭に20数年後のマッグハーンへのインタビューがあったり、全エピソードの解説と台詞場面構成などの詳細な記述、製作秘話等など。カルティックなファンが同好者を意識して編集しただけあってなかなかの内容です。背表紙などにVirginのあのロゴがあるので、あのヴァージン社も関連しているんでしょう。たぶん、現在でも入手可能だと思います。元々は1989年にフランス(?)で出版されたものが英語に翻訳された本。 |
・スターログ1981年3月号 680円 上記の種本を入手するまでの資料としてたまに眺めていた雑誌(入手は81/2)。STARLOGという雑誌は洋物嗜好の典型的なカルト雑誌で、たまに古本屋で見かけることがあるけど、とんでもない値札がついていたりします。この号以前にもたぶん特集はあったのだろうけれど、創刊2号に簡単な紹介があるだけで、他は本屋で立ち読みするくらいだったので分からないです。この号には全17話のストーリーボードと村(ポートメイリオン)の地図、その他に解説が載っています。
Image : Page1(JPEG:80K)
Page2(JPEG:20K)
Page3(JPEG:106K)
Page4(JPEG:96K)
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・The Official Prisoner Companion (TheWarner Books, Inc. 666 Fifth Avenue, New York 10103) Dean Motter & Mark Askwith ISBN 0-446-38744-4 Warner Books社が1988年に出版したプリズナーガイド。17話それぞれの制作スタッフのリストや粗筋やスクリプト、様々な切り抜き的な記事を集積した二次的資料本。 |
・Inside the Prisoner (B.T. Batsford 583 Fullham Road London SW6 5BY) Ian Rakoff ISBN 0-07134-8413-6 2001/8にamazon.co.jp経由で入手したプリズナ本。Ian Rakoff はオリジナル・シリーズの脚本家の一人で第12話、Living In Harmony "悪夢のような" を担当。そうした著者の来歴の故もあってプリズナーNo.6に関連した書籍の中でも一次的資料価値が極めて高い。 |
・The Prisoner -shattered visage- (DC Comic Inc. 666 Fifth Ave., New York, NY 10103) Dean Motter & Mark Askwith ISBN 0-930289-53-6 アメコミの雄、DCコミック社がITC Entertainment社からライセンスを受けて出版したコミック版のNo.6。といっても20数年後、廃墟化した「村」に拉致された女性と彼女の現実、さらにNo.2/No.6(らしき老人)達との心の迷路を解きほぐすといったオリジナル・ストーリー。TVシリーズに対するある種の解釈がコミックスという形で表現されている。No.6マニア向けな内容かなぁ...。ちなみに、DC Comic社とCompanionのWarner Books社は同一住所。おそらく同じビルテナントなのでしょう。 |
・Prisoner, Prisoner2 雑誌「遊撃手」(1984/6~1985/2)の創刊号を読んで驚いたのは海外ゲームの紹介を精力的に行っていたライターである安田均氏の一文。あのプリズナーNo.6を題材にしたゲームがアメリカで既に商品化されていたことでした。タイトルは「Prisoner2」(Edu-ware社)。(この一文は安田氏の書かれた文章をまとめた本の一冊である「神話製作機械論」(ビー・エヌ・エヌ社刊)に再収録されています。)このゲーム・ソフトについては、当時、アメリカからApple][のソフトを輸入販売していたお茶の水にある「Pineapple6502」に注文を依頼したのですが版元が倒産して無い。という理由で結局入手できませんでした。そのため、長い間、このPrisoner2はたぶん、Prisoner No.2の2で、管理側の視点でのゲームなんだろうなぁ。と思っていたところ、実は「ターミネータ」に対する「ターミネータ2」があるような意味での続編であった、というか、「Prisoner」といういわゆる「1」のソフトもあることが今年になってわかって、遠い過去から突然ある種の驚きがやってきて後頭部を打ち叩かれた思いがしているところです。いずれにせよ、それらのゲームソフトはAppler][というアップル社のMacintosh以前の古い8bitのパソコンゲームなので、現時点での入手はほとんど不可能です。 |
プリズナーNo.6全17話のほとんどがイギリス・ウェールズにある海浜の街、ポートメイリオンで撮影されています。この街に関してはDavid Lawrenceさんの Virtual Portmeirionに詳しいので関心のある方はぜひ覗いてみて下さい。情報量が膨大なので全部見るのに1時間程度はかかるかもしれない。Davidさんの主催するOnce Upon a Time Club で、上記のPrisoner2のゲームパッケージが売りに出ていたのでメールを書いて譲ってもらうことになってます。それで何度かメールのやりとりをしたのだけど、そのせいか、彼のサイトのリンクリストにここが載ってます。うわぁ、感激!。
実は、1981年に購入した雑誌でウェールズにこの街が現存していることを知ってイギリスを旅行するならぜひ行ってみたいものだと長年想い続けていました。1988年の夏、3週間かけてフランスからイギリス、アイルランドと旅行したことがあるのですが、その時はすっかり忘れていました。portmeirionは途中一泊したBangorという北ウェールズの街からなんと20マイルしか離れていないことを彼のWEBで知り、今更ながらに愕然としているというか、惜しいことをしたと悔やんでいます。うーむ。バスとか電車でも1時間掛からない距離ですから。今度旅することがあれば、portmeirion観光を必ずや実現させるぞ、と決意を新たにしてます。ちなみに、Davidさんはほとんど毎年、3週間程度のバケーションを取ってportmeirionにバンガローとかを借りて住人しているとか。来年も5月に再訪を予定しているとのこと。うーむ。ぷりずなファンもここまで来るとレベルが違うなぁ。羨ましい。米国からだと飛行機の切符も安いし、バンガローならB&Bよりも安いのだろうし。ウェールズは他にも古城とか空の広い景色とか見所はたくさんあるし。
ちなみに、宮崎駿の一連のアニメには時折広い空がでてきますが、ウェールズの空ってああいう感じです。彼も大のウェールズ・ファンだと言う話ですから、portmeirionとかにも行ったことあるのかもしれませんね。
日本映画、TVに関連したデータベースが日本のどこにあるか不明なので、NHKが放映した吹き替え版のNo.6の声優であった小山田宗徳氏の経歴などの詳細が判らないのが残念です。私が知る限りにおいて言うと、確かNHKの俳優養成所の出身で(その意味では黒柳徹子さんに近いはず)ホームドラマや昼メロ(「よろめきドラマ」とも言われたけどもはや死語)の主役など多数。東京12ch時代に放映された「宇宙大作戦」のMr.スポック(といっても私は見ることが出来なかったけれど)、「魔法使いジニー」のご亭主役(これはよく見た)などの声優も多数こなしておられたらしい。何年も前(90年代半ば?)に肺結核で逝去されたことを朝日新聞の訃報で知ったけれども、自宅は川崎市多摩区王禅寺。私の実家のすぐそばだったことをその訃報で知りました。吹き替え版のプリズナーNo.6に関しては初回放映時は全作見たはず(歳がバレますけど)で、その後の再放送なども機会がある度に見たけれど、全てビデオデッキを個人が買えるようになる以前の話。かろうじて最終3作(おとぎ話、最後の対決、終結)の録音テープのみが残っています。でも、個人的には彼の吹き替え版を通して見たい気持ちが大きいです。かなり前にWOWWOWで放映されたことがあったとかいう噂を聞いたことがあるのだけれど、吹き替え版であったかどうか。どなたかVideoTapeをお持ちの方がおられたら、ぜひとも、ぜひともよろしくお願いしたいです。うーむ。
かつて、米国の幾つかのサイトで、マッグハーン自身がすでにシナリオを作成中である。といった記述が散見されたこともあったけれど、どうも立ち消えになってしまった模様。
TV畑の脚本家ビル・ギャラガー(Bill Gallagher)の制作総指揮・脚本で「デジャヴ」「ファイナル・カット」「パッション」などに出演したジム・カヴィーゼルがNo.6、(James Caviezel),イアン・マッケランがNo.2役で対決するリメイク版がただいま制作中。来年2009年には全米でオンエアされることが決定しているとか。wowowとかで見られる日も間近かもしれないですね。 ご意見・ご感想はこちらへ
気が付いたらそこは......掲示板だった.....とか (^_^)
●小山田宗徳(おやまだ むねのり)
●映画版 プリズナー
●リメイク版TVシリーズ プリズナーNo.6
60年代の人気ドラマ「プリズナーNo.6」がリメイク
http://www.varietyjapan.com/news/drama/2k1u7d000004xk5v.html
THE PRISONER SERIES 2 TO PREMIER IN 2009/ THE PRISONER 2009
http://www.portmeirion-village.com/content.php?nID=8;ID=88;lID=1
ジム・カヴィーゼル
イアン・マッケラン
●掲示板
●プリズナー No.6 Misic Videos from YouTube
Dance of the Dead
FINALLY REVEALED!!!
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