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マトリックス
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1.マトリックスについて (2001/3/16)
キアヌ・リーブス主演のマトリックスは劇場公開当時、とても話題になった作品である。マンガ的痛快アクションなどという批評をTVで見聞きしたことがあった。映画館で見たいところであるが、子供が二人もいると、映画館に行くことはたいへんなので、うじうじしている内に機会を逸してしまった。幸いなことにDVDの機材を手許のPCに組み込んだ際に買い求めたDVDソフトの第一号はこのマトリックスで、いまではいつでもじっくり見入ることが出来る。BSでも何度も放送されているし、ビデオも出ている。でも、ランダムアクセスが可能で、日本語字幕も英語キャプションも選り好みできて、メーキング・ビデオまでオマケになっているという点で、DVD版はというかDVDの良さを理解するにはよい機会であったと考えている。
僕的には、マトリックスは典型的なカルトムービーである。と考えている。雑感(2000/11/7)で一度総ざらいしたこともある。以下に再掲しておくことにしよう。
●マトリックス (2000/11/7)
一月くらい前に、PC用のDVDドライブのテスト用に購入したキアヌ・リーブス主演『マトリックス』を観る。DVDにはリージョンコードがあり、その結果、主音声が吹き替えになってしまうので、ついつい吹き替え版で観てしまう。字幕も表示されるが日本語字幕と吹き替えの日本語が全く異なる点が面白い。ほら、翻訳に一様な結果なんて期待できないのだ。という点で。
さて、『マトリックス』であるが、特撮技術の時間軸の解像度は確かに凄いし興味深い。あと「大乗的」カンフー修練とワイヤードなアクションも。しかし、そうした外見とは裏腹に、これを一つの「独我論的物語」として見るという視点もあるだろう。映画が劇中に仮設している「リアルな世界」はリアルな主体には認識されることない。彼らの「世界」は「イメージ」だけで成立している。そしてその主観的イメージが交互に交錯する「世界」を「マトリックス」と呼ぶのである。独我論的「間主観性」が具視的に表現されているとみることもできるだろう。
サイバー(パンク)なSFストーリーは、本家W.ギブソンのみならず、ディズニー映画の『トロン』にしても、コンピュータの中と現実とを往復するアイデア・ストーリーという形式を共有することでジャンル分けされる。その種のストーリー構成に殊更の目新しさを感じることはない。というのも、それはコンピュータという現実にある種の形而上世界を閉じこめようとする試みであるから。そのようにコンピュータという「実体」を設定しそこで起こる風景を語ることで、作者も読者も安心しているに過ぎない。だからそれだけではサイバーでもパンクでもないだろう。コンピュータが作り出すイマジナリーな世界で溺れる人間という構図そのものがある種の限界を示している。このような構図で語られる物語と問題の解決はいかなる意味でも二次的でしかないと思われる。そもそもの問題はコンピュータが現存している世界の仮現性にこそあるのだから。そしてこの問題に『マトリクス』の構図は近寄れるのだろうか。
確かに『マトリックス』が示す「リアル」な世界=未来世界は「救世主」が必要なほどに閉塞した終末的世界である。「リアル」に住まうことを自覚した「終末的世界」の住人は「救世主」を期待し探し求め、結果として彼らの期待通り「救世主」が現れる。「夢的イメージ」の中では「エージェント(悪魔)」が跋扈し、予言者もそこには現れ、さらに裏切り者さえ登場する。そして駄目押しというべきことに、その「救世主」は一度死に、復活まで遂げてしまう。このように、「存在の閉塞感」の打破の物語は「聖書物語」のアナロジーそのままに語られてしまうのである。「カルト」という語の意味を「怪しげな」ではなく、「世界・存在の問題に積極的に答えを出そうとする傾向」と解釈するのであれば、この映画もまた十分に「カルトムービー」であると言えるだろう。
『マトリックス』は海外で大ヒットしたという。SF映画の多くはその特撮画像の故に観客を惹きつけるが、「安心できる荒唐無稽」でなければヒットには至らない。その安心さこそが「買い」である。西洋の場合、そのポイントの一つは「聖書的なシンボル」である。例えば十字架で封印されてしまう「ドラキュラ」や「エクソシスト」などの例は端的であるが、『マトリックス』もまた「聖書物語」のアナロジーである。ここに海外の観衆は「テクノロジーの高度化=恐れ」に対する安堵感(癒しの予感)を覚えたに違いない。西洋大衆の不安が今もなお、聖書物語の中でこそ安堵するという心理の風景にはある種の不思議さがある。
この点を逆さに見れば、そこにはある種のマーケティング手法が存在すると言うことができる。つまり、「存在の不安」をテーマにしたエンターテイメント作品で成功しようとしたら、特に海外で成功を目指すのであれば、聖書物語のアナロジーを採用すること。ということだ。もちろんそれがそのまま日本で通用するわけではない。日本で大ヒットした『もののけ姫』はある種の「存在の不安」をテーマにしつつ非聖書物語な結末で終わっている。鳴り物入りの全米公開はさほど成功しなかったといわれているが、いわば安堵感の落とし所に彼らの違和感があったからであろうと私には思われる。『アキラ』とか『ガンダム』、『エバンゲリオン』とかではどうだろう。『マトリクス』の脚本・監督を担当したウオシャウスキー兄弟が『日本のアニメーションを参考にした』と語るように、一連のジャパニメーションの物語が「覚醒」の物語であるのは確かだ。『マトリクス』も然り。ただし主人公「ネオ」が「救世主」として「覚醒」するというあり方が、結局「西洋人」が住まう文化基盤の大枠なのであろうと思われた。
「覚醒」は、時間に縛られた人間の生においては時間的な過程として現れる。アニメを含めて、映画は時間軸を表現するメディアであるから、映画はその作りによってはうまく「覚醒」を表現し得る。ただ、それでもなお、「覚醒」は到達点への「過程」だ。どこに行くのか。何を「覚醒」するのか。「宗教」はその先を示すところに共通した特徴があると思える。カンフー・カルト・アニメーションである『ドラゴンボール』はある意味で例外的だが、ジャパニメーションの多くはその先を必ずしも具示してはいない。「君が居て僕が居る」という場所以外を具示しているのだろうか。もちろん、だからといって「宗教」が優れているわけではない。ただしかし、観客としての私たちは答えをいつだって欲している。その先を知りたいと思っている。しかもできれば3分間ですぐに全てを欲しいと思っている。
LWについても、LWの哲学物語の大枠は紛れもなく「聖書物語」であると思える。これは確かなことだ。それだからといって、それが馬鹿げているわけではない。「彼」においてはそうなのだから。LWの前期後期の哲学物語の問題は「覚醒」の過程なのである。私にはそう思える。だけれども、それを無理矢理「仏教」の枠の中でのみ評論する識者が日本に多いのはこれまた不思議な感じがする。凸レンズの眼鏡で世界を論じる者を凹レンズの眼鏡で見て論じることにどれほどの意味があるのだろうか。文化という文脈が異なるのだからやむ得ないのかもしれないが、一次的に語るならまだしも、二次的に評論する際に自ら縛られている文化の大枠に無頓着であるなら、論者であることを止めるべきであると私には思われる。
キリスト教は仏教をも包摂するだろうか。仏教はキリスト教をも包摂するだろうか。そのいずれの立場にか依拠するのであれば、それは「主義」であることを免れ得ない。個人的には何をも強調することなく、あるがままのそれをあるがままに受け入れることができることができれば、と考えるようになっている。といっても、受容体がなければ受け入れる以前に理解できないであろう。そしてそういう「理解不能」事が無量大数ほどにあるということが、私の限界でもある。
3.マトリックスとプリズナーNo.6の関係 (2001/3/16)
村田さんのホームページの中の掲示板でプリズナーNo.6とマトリックスの関係について書き込みをしたら、レスポンスとして、マトリックスの場面の中になんとNo.6の1シーンが挿入されている。という情報を頂いたことがある。これは大事と確認してみたら、驚くべき事か、確かにマトリックスの映画の1カットにしっかり引用されている。
この画面は、ネオがエージェントの3人に追われてシドニーの街を逃げ回るシーンの1カットで、二人の老人が住むアパートの一室に飛び込んだ際の、ネオの視線で部屋が撮られたほんの1秒間前後のシーンである。先の掲示板の情報によればそれをNo.6の1カットと確認していたひとがいる。ということであるが、なんということだろう。凄い話だと思えた。というのも実際に写っているのはマクグーハン演じるNo.6ではなく、No.2であって、画面画像からすれば、DVDであっても、容易に判別は付きにくいのであるから。胸に付けた古式の自転車ワッペンもぼやけている。それに1秒あるかないかの1カットであるし。ただ、あのマフラー、細めの白と黒のマフラーは歴代15人のNo.2が皆身につけていたNo.2のシンボルでもあるので、No.6ファンなら多分すぐにわかるはずなのである。
Dune's No.6 Page
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