大昔、小学三年生の秋か冬の夜、夜中に目が覚めて、眠れない夜を過ごしたことがある。それはその後も度々あり、眠れないまま何時間もまんじりともせず、暗闇の中で天井を見つめていた。その種の事態は子供の私にとっては恐怖そのものであった。
そういう夜、よく考えたことがあるとすれば、生とか死のことであった。僕の勉強机は木製であったが、たとえば僕が死を迎えてもそれは残るであろう。しかし、その机の前には二度と座れないであろうし、そもそも、そのとき、僕はどこにいて、その机はどこにあるのだろうか。そういう事の一切が分からなかった。
小学生から高校生のころといえば、父親の仕事の関係で、二年ごとに引っ越しを繰り返していた。だから、どこで何が起こったのであるかの記憶が明らかであれば、それが何歳の頃のことだったのか、最悪でも2年の誤差で確言できる。この意味で、そうした「夜の恐怖」の始まりは浜松に住んでいた頃小学3年生の夏から5年生の夏までだ。そのころ、家の近くに姫街道という浜松市内から浜北市方向へ続く自動車道があり、街道沿いの夜間燈を遠くから窓越しに見つめつつ、この暗闇の中の風景は、一種のおもちゃ箱なのだ。ただ僕の為にだけ用意された遊園地なのだと思うことがあった。
そうした「恐怖の夜」を回避するための方法として、僕が見いだしたのはラジオであった。リアルタイムに他人の声を聴くことでその恐怖は緩和された。当時はトランジスタラジオなどは物珍しい頃であったが、父親の仕事柄からそれは家にあり、電池も言えばたいてい貰えた。父親はそれを家で使うことはなかったから、トランジスタラジオはほとんど僕が占有していたも同然だった。しかし、半眠半覚でラジオを聴くものだから、朝には電池が無くなっているということがしばしばだった。9Vの006P型の電池は当時でも高価でいつでも利用できたわけではなかった。そのため、毎晩「夜の恐怖」を回避する事は不可能であった。それであるとき、ラジオ工作の本や雑誌のあることを知り、そこから電池なしで使える「ゲルマニウム・ラジオ」を知り、小学三年生の正月に作った。デパートで買った組み立てキットだったと思う。ポリバリコンを内蔵した黒い小さなケースは今でも良く覚えている。しかし、それは感度が悪く、日曜日の深夜などは全く役に立たなかった。当時はラジオであってもせいぜい午前零時あるいは1時かそこらで終わってしまっていたと思う。日曜日の深夜はおよそ日本全国のラジオ局は放送を停止する「真空地帯」であったのだった。だから、電池切れをゲルマニウムラジオで補えても日曜の夜だけはいかんともならなかった。
小学4年生のクリスマスの前に祖母が訪ねてきてくれたことがある。お年玉の前渡しで小遣いをもらったものだから、母親にせがんで、エレキットというユニバーサルな電子キット買って貰った。というのも、これにはトランジスタ・ユニットが1つ付いていて、単三電池1個だけで使える1石ラジオを組むことができたからだ。それはたいそう役立った。感度も良くなったし、単三電池は9V電池に比べれば抜群に長持ちしたし子供の小遣いで買うことが出来るほど安価でもあった。
小学5年生の夏に静岡に引っ越しをした。岩崎ラジオというパーツショップがあったので、小遣いをはたいて部品を買いラジオをいろいろ作った。トランジスタラジオも作ったが、メインは真空管式のラジオで穴あきアルミシャーシにバーニアダイアルとスピーカーをつけたものだった。結構感度が良かったし、12cmのスピーカーから流れ出る音は感動ものだった。庭にダイポールアンテナもどきのアンテナを引き回して、それをその高一ラジオにつなげた。当時TVではグループサウンズとかモンキーズが流行っていたが、自作だったこともあってラジオは良く聴いた。当時はクリームだとかビートルズとかを聴いていた。アートロックとかそういう時代だ。そのほかに0V1という、超再生式の中短波ラジオも別に作った。短波ラジオに日曜の夜はなかったからだ。その小学6年生の頃に特異さがあったとすれば、くだらないことだが風呂に入る時間を極力短くしていたということがある。自身の肉体の卑小さを感じることが嫌だったのだ。風呂場には得も言われぬ閉塞感を感じていた。その六年生の冬休みに、アマチュア無線の免許を取った。講習会とはいえ後年のような○×式ではなく、筆記試験をパスしてのことで、ちょっとは誇らしい気持ちをもてたものだ。それから約半年の間、駿府公園内に今でもあるだろう児童会館のクラブ局に入り、そこの機材を利用させて貰った。キューブリックの『2001年』をロードショーで見たのもこの頃だ。方や現実ではアポロが月に人を運んでいた。プール隊員にはなりたくないと思った。なぜなら彼を飲み込んだ宇宙空間は無限の暗闇だったからだ。それは僕の恐怖感を象徴していた。
中学1年生の夏から、住まいは大阪枚方だった。万博の故の引っ越しだった。引っ越し早々50MHz帯のアマチュア無線機を買って貰った。万博へは何度も通ったが、それ以上に日本橋には何度も行った。
大阪時代以後は家庭用のコンセントから電源を取れる目覚ましラジオがあったので、ラジオに限っては苦労はなくなった。しかしながら、「恐怖の夜」という感覚は結局拭うことができていない。それは四半世紀以上過ぎた今でもそのままである。寝るときはほとんど明かりをつけたままが多い。枚方に住んでいたときはアパートの5階で、京都山崎のサントリーの工場まで視野を妨げるものが無い程に眺望の良い部屋にいた。眠れない夜には、部屋の明かりを付けて遠くの夜景を良く眺めていた。小学生以来、ずっと考えてきたこと、つまり、私が居る世界はある種の機械仕掛けのおもちゃ箱、あるいは遊園地で、そこに放り投げられた私とは何者なのかということを、そういう夜に限ってよく考えた。他人・他我が問題になったことはない。それは多分に私の姓名がユニークな文字列で、自分自身は唯一的な存在であることを文字列のユニークさを通して叩き込まれていたことが一因していると思う。また転校生であることに馴れていたせいもあるだろう。転校生も10年以上続けるとそれは立派なトラウマだ。2年に1度、社会的に死んでいた。2年に1度住む世界が全く異なった。といっても日本を離れたことはなかったが。
その後、奈良に2年、そしてその後は東京に戻ってきた。高校の最後の二年間は寮生活の故に親とは別居していた。大学に入って二年目に父を亡くした。そこから先は、まぁ、どこにでもあるような生活をしている。若干変なところはあっただろうが。
そんなこんなで、大学に通い始めた直後、最初にウィトゲンシュタインの『論考』を読んだとき、気になったのは独我論の部分だった。特に5.6.2以下の独我論の部分と、6.4.3.1から7に至る死や神秘に関する最後の部分だった。そこでのLWの筆はあきらかに引きつっているように思われた。NoといわずYesと肯定することに精一杯のように思われた。
『論理哲学論考』
5.6.2.1 世界と生とは一である。
5.6.3. 私とはわたくしの世界に他ならぬ。(つまり、小宇宙。)
6.4.4. 世界がいかにあるかが神秘なのではない。世界があるという、その事実が神秘なのだ。
世界があるという事実、すなわち、私があるという事実は神秘である。というウィトゲンシュタインの物言いをどうにか解体したい。ということがそれ以来、常に念頭にある。子供の時に体験したある種神秘的なことがらさえも、日々毎日が「連続する神秘」であるのだとすれば、色あせてしまう。言われたとおり、不安に思うことはないのだ。ただ安心してさえいればよいのに。と思うのではあるが。
●独我論者は「裸の王様」 -2- (2001/2/12)
『裸の王様』という寓話がある。物語の大筋は誰でも一度は聞いたことがあるであろうから、言うまでもないが、念のために大筋だけは示しておこう。つまりこういう話である。
ある国の王様はたいそうお洒落で、権力と財力にものをいわせて究極のファッションを求める。そこに(悪)知恵を働かせた職人が究極の織物を献上し、大金をせしめる。その究極的な織物とは透明の糸によって織られた透明の服であった。その王様は、誇らしげに、そのファッションを見せびらかせるために「透明の服」を身につけ、領国を闊歩する。そして、臣民から「なんだ裸じゃないのか」と笑われる。
私はこの寓話のエピローグがどうであったかをよく知らない。つまり、「裸じゃないか」と言われた王様が騙されていたことに気が付いたのか、それともそのファッションに満足したという結末だったのか。ということがよくわからない。
この寓話が語られる場合、語り手はまず、服飾職人は詐欺師で、王様は「騙された」に過ぎない。庶民は「アホ」な王様を見て爆笑した。という解釈を行うことが普通だと思う。私もそういう理解であった。
しかし、よくよく考えてみると、王様は、透明な服、限りなく0グラムに近い服。という究極の織物を好んで求めたのである。その種のファッションが究極のファッションであることを認知していたのである。さらにいえば、王様はそれを身につけ、領国を闊歩するとき、ほとんど裸体を晒すことなるであろうことは自覚していた。はずなのである。当然、庶民の笑い者になることは予期される事柄であったはずである。この解釈からすれば、服飾職人の「詐欺」が成立したとしても王様が笑われたことを彼らのせいにはできない。
さらに、もっとつっこんでみる解釈もある。王様は実は裸で街中を歩きたかったのである。そのために、懇意の服飾職人と共謀し、あるいはその悪知恵を逆利用して最低限の言い訳、すなわち透明であるが「服を身につけている」ということにして、自らの欲望を達成した。彼はそこで、「王権」をもってしても覆すことができないであろうはずの「道徳」をまさに王権をもって覆したのである。この解釈では、嗤われるべきはむしろ庶民的な道徳感覚のほうである。街中を歩く際には裸体を晒してはならない。という道徳感覚の普通さに潜む秩序観。道徳は王権を有する王様にさえ及び拘束するという感性(それはまさに王権に対する否定である)あるいは権力観こそが実は「裸の王様」によって打破されているのである。
『論理哲学論考』
5.6.3. 私とはわたくしの世界に他ならぬ。(つまり、小宇宙。)
「独我論」は、「世界」の理解の仕方の一形態である。小宇宙として「独我論者」の「世界」は存在する。彼がもし「倫理・道徳・法・ルール」までをその「世界」に組み込むのであれば「世界」は「王国」に比することができるであろう。その時、独我論者は彼の王国の国王に即位する。かれが「無神論」者であるならば、私の道徳が世界の道徳である。と宣言するに至るであろう。彼はそのとき、既存の道徳・倫理の全てを世界の風景の中に押し込める。そこで自ら裸体を晒すための倫理を定めるために理論を構築(捏造)することになる。そうしなければ風景に押し込めたはずの道徳・倫理が彼の王国・王権を危うくするからである。
本来、西洋の貴族とは「有神論」の世界の擁護者として「世界」を統治する権力者に連なる者であった。彼の神がケルトであろうがゼウスであろうがヤハウェであろうが「天命」であろうがいわば神官に連なる者としてその倫理を尊重体現する責務を負う者であった。この意味で、彼が独我論者であろうとなかろうと、倫理の問題は彼の手の中には無いはずのものである。初期LWの独我論はこの点では徹底した有神論的な独我論で、神・倫理は世界の外側の問題とするものであった。しかし、
『論理哲学論考』
6.5.2. いい表せぬものが存在することは確かである。それはおのずと顕れ出る。それは神秘である。
『論考』時代のLWの独我論は、世界と「私」とは一つなのであって、事実は私(世界)に「顕れ出ずるもの」なのである。それは神秘なのである。そして落ちてきた(fall)「事実」の全てが命題によって肯定される。
政論的に言えば、LWの独我論的王国は、古風な絶対君主制の残滓そのものである。彼の(独我)王国における国王の権力は神授されたものであって、国王自身の恣意性で如何にもなる。というものではない。LW的独我王国の国王は倫理に口出しできないのである。
「裸の王様」という寓話の王様は、あらゆる意味において、インモラルである。非道徳的である。普通の解釈であれば、それは庶民の笑い者であるという意味で。また、神授された王権者としてなすべきでない恣意性を貫いたという意味において(アーサー王の神剣エクスカリバーは彼の恣意性の貫きによって折れるのである)。本来貴族の貴族性は「神授」されてある。というところに根拠があるものである。この意味で無神論者は貴族になることはできない。
インモラルであることは見方を変えれば「自由」を意味すると見ることもできる。ここでは無神論的独我論について考えてみよう。<彼>は神無き(独我)王国の国王として生まれた。もしそうであるならば、<彼>は、いかなる倫理も思想も立ち振る舞いも自らに許すであろう。なぜなら<彼>は(独我)王国の国王であるから。<彼>は自ら許すことでその立ち振る舞いを正当化できる。神無き王国における正統性は<彼>のものであるから。<彼>は国王であるから、他国の倫理観や既存の道徳・宗教などを自らのものと宣言することはない。<彼>の国王としてのプライドがそれを許さないからだ。しかし、それでも<彼>は他国(他我)の倫理や価値観・道徳が気になって仕方がない。なぜなら自国の由来を問うても説明できないし、気が付いたときに身につけていた国王としての倫理観や道徳観の由来等を説明できないからである。またそれだけでなく他国(他我)のそれも説明できないからである。<彼>が説明できるのは他国と自国はどのように異なっているということだけである。なぜ自国が存在し、他国が存在しているかを<彼>は逆立ちしても説明できないのである。
しかしながら<彼>と私は別国の国王同士である。もし<彼>が我が王国に「人を壊してみたい」と攻め入って来るのであれば、そのとき私は国王として剣を抜くであろう。<彼>の自由は<彼>の王国においてのみ通じる自由なのであって、我国においては、それを「自由」とは呼ばないのである。
本来、国王は神授された王権によって王国を護持することが責務なのであって、恣意的な倫理を持ち出すことはできない。だから神授的な(独我)王国の国王が倫理を問題にしたりその意義について懐疑的になったりすることはない。彼は神授された責務を全うすればよいだけのはずなのである。しかしながら、無神論的(独我)王国においては事情は異なるであろう。彼国では王国がなぜあるのか。というところから問う。国王自らなぜ国王であるのかを問わずにはおられないであろう。なぜならそれは神授されたわけではないと考えているから。この意味で神無き独我論者の世界観はまさに「裸の王様」の世界観であるといえる。彼は自らの世界観・倫理観を街中で誇示して闊歩したがるのである。かれはせっかく作り上げた王国の由来と思想、倫理を吹聴して回りたがるのである。それが国王の性である。
独我論者の世界観を「王国」にたとえてみることは「寓話」の一種でしかない。もちろんその通り。しかし独我論を奉じたとたん、独我論者は自我という人民無き王国の国王に即位していることを悟らざるを得ないのである。彼は千年王国の王として君臨できるだけの資質を持ち合わせているだろうか? 独我論者ならば皆が皆、それを自問しなければならないだろう。かくして「バカ殿」が巷に溢れるのである。もちろん寓話的にではあるが。
●フィールドオブドリームズ (2001/5/22)
誰にでも推奨できる映画というは数多くあるが、これ1本。ということで選ぶとなると難しいものだ。といいつつ、ミル姉さん風にいえば、『フィールドオブドリームズ』ということになるだろうか(全然洒落になっていないけど)。
アメリカの「父親」を描いた作品としては、『フィールドオブドリームズ』と『ゴッドファーザー』が双璧だと思っている。息子は父親をどうすれば理解できるのか。ということにそれなりの回答を与えていると思う。
『フィールドオブドリームズ』はこの点で実にわかりやすい。というのも、とても図式的だからだ。「1:まずそれを造れ」「2:彼を癒せ」「3:彼に会うであろう」。
この図式的三段階には、俗っぽい解釈が1セット可能だ。いわばビジネスの成功者の三段階だと解すると分かりやすい。ドラッガーとか、カーネギーとかいった私は決して読んだことがないビジネス指南書の骨格でもあるだろう(たぶん)。つまり、「1:まずビジネスを始めろ」「2:顧客のニーズに応えろ」「3:そうすれば成功は我が手にあり」ということだ。
しかし、『フィールドオブドリームズ』の本来的な解釈は、アメリカンドリーム追求の三段論法とは趣を異にしていると思える。単純な「アメリカンドリーム」追求話ではない。というのもあの話は「アメリカンドリーム」の一例としての「野球」と「野球場」に「夢」を賭けて「挫折した」夢追う英霊たちこそが主役なのだから。彼ら「挫折」したはずの英霊たちの表情は「夢」を信じることで不死を得たかのごとく明るい。途中省略で結語してしまおう。息子は結局、自身の人生(あるいは仕事)を通してのみ父親に出会えるということだ。
私の父親は、ラジオ全盛時代の人気バラエティ番組のプロデュサーだった。その道では草分け的な番組の『7つの扉』や『とんち教室』『話の泉』などといった人気番組をずっと手がけていた。50台以上の人であれば一度は聴いたことがあるかもしれない。かくいう私は、父の現役時代をほとんど知らない。65年を最後に現場を離れ管理職側に移った父は、地方局の管理職として雑務に忙殺され、そして体調を崩して10年後に他界した。
『フィールドオブドリームズ』の冒頭で、ケビン・コスナーが父親を語る際の素っ気なさ。なんとなくわかる感じがする。父親について「百科辞典的」精確さをもって語ることなんてどの息子にもできはしないのだ。
晩年(といっても51で他界したから、今の私とさして変わらない歳のころ)、三田村蔦魚の全集を集めていた。全巻配本になる前に他界してしまったが、江戸小噺的な世界に最後まで関心を抱いていた。実際落語にはよく通じていたし、可楽や志ん生など彼らが現役であった頃に仕事上でもつき合いがあった。生きていれば聞きたい話は山ほどもあるというのに。
ある意味で、父もまた、生涯を通じて、言葉を問題にしていた。それは「ラジオ(あるいはマスメディア)から流れる言葉」という意味で少々今的にはレトロかもしれない。しかし、対話のもたらすダイナミズムにはナイーブであったと思う。そうして息子もまた、言葉を問題にしている。どちらかといえば、「意味の病」という点ではあまり健康的ではない方向に走っている感じは否めないけれども。それでも、日常語に特異な関心があるという点に限って言えば父親からの影響があるのだろう。
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