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H.L.A. ハート 『法の概念』後書きについてH.L.A. ハート 『法の概念』後書きについて
このページでは、法哲学(法理学)の碩学、H.L.A. ハートの『法の概念』、特にその後書き(postscript)ついて少し考えてみたいと思います。
●1.『 The Concept of Law Second Edition 』について(2001/9/15)
H.L.A. ハートの『法の概念』を読んだのは70年代後半の学生の頃だから、四半世紀も前のことになる。その『法の概念』が最初に出版されたのは1964年。そしてその第二版が1996年(ペーパーバックは1998年)に出版されている。つい最近までその第二版が出ていることを知らなかった。ウィトゲンシュタイン本をamazonで漁っているなかで、その新版が出ていることを知った。旧版はみすず書房から翻訳本が出ている。現在では入手困難であるようだ。といっても、法哲学の分野では名著・定番だから、遠からず第二版は出版されるのではないだろうか。
要は私が世代的に、70年前後の学生運動の「乗り遅れ組」であることに起因しているのだろう、中学・高校生の時代を通じて、ルールとか規則とかといったことがよくわからなかった。それらはどう考えても「自由」の制約にしかならない。という思いがあった。だから子供のころから趣味だった電気いじりを専門とするのではなく、大学では法学を学ぶことにしたということがある。ゼミでハートを読む以前とその最中にウィトゲンシュタイン(といっても法政大学出版局版の『論考・探求』)にはまっていたこともあり、特に『探求』が抄訳であったこともあって、結果的に「ルール」という語の意味を明確に把握できないままタイムリミット。今に至るまでの長い間この「ルール」という考え方(見方)に決着をつけきれないでいた。
LWとハートを同時並行的に読んでいた当時、「ルール」という語の語法、あるいは概念的扱いについて、LWとハートではかなり違うように思われた。ハートは「ルール」という語をいわば法曹的な常識語として使っているように思われ、またLWの語法では法的ルールという具体的なイメージからはかなり遠いとも思われ、接点を見いだすのが困難であった。当時陥ったジレンマがあるとすれば、ハートを読む場合、「ルールとは何か」と疑問が理解の阻害となったこと。さらに、LWを読む場合に「LWの説明は法的ルールを説明し得るのか」と疑問を持つならば、やはりLWのいわんとすることを見失ってしまうことであった。
結局、ハートにしてもLWにしても、その著作を読むためにはある種の「技術」が必要だということなのだ。こういってしまえばそれは単なる読書技術の問題になってしまうだろうか?
●2.一次的意味と二次的用法のルール系としてことばを見ることができるか? -1- (2003/2/16)
法とことばを見つめる視点はいくつかあると思う。ここでは2つ取り上げて比較することにする。
第一の視点とは、「言葉の意味の取り扱い」を「法的ルール」に類似したシステムの働きとして捉えるという視点だ。H.L.ハートの法分析の枠組みを借りて言えば、「言葉の意味」を一次的な「意味」と言葉の意味の生成、変更、用語法の正しさの裁定、そして「言葉の意味」を受け入れるという「承認」などで示される二次的な語法・語の取り扱い方に分けて見る。ということである。
ハートは法には「開かれた構造」があるという。(この「開かれた構造」という概念はハート自身が記しているように、ウィーン学団のメンバーでもある「ウィトゲンシュタインの信奉者」であったヴァイスマンによるもの。)つまり、法的ルールは全て一枚板の盤石な構造(たとえば「法とは威嚇を伴う命令である」というような構造が法の構造であるとする見方)を一様に有しているわけでなく、いわゆる成文法のような純然な法律と二次的ルールの一部不備を伴う国際法、あるいは道徳、慣例、習慣など「不完全ではあるが法に類似しているルール」のように「コア・ルールと周辺ルール」が「法」と呼び得るルール系であるとする見方である。「開かれた構造」という概念で「ことば」を法的ルールの類似ルール系としてみれば、この構造の最外縁に位置するのであろう。言葉の意味は「辞書的な意味定義」をコアにしていると考えることもできる「かも」しれないが、新語・造語・外来語のように、語の意味定義は一定のルールによってなされてはいないし、比喩や同音異義語、同綴り異義語、さらには多義語のように、語義の修正もまた一定のルールによってなされているわけでもない。さらに専門分野の特異な語彙や外国語、外来語のように、全ての語彙が日常的な常識用語に入っているわけでもなく、語の使用という観点でみればごく一部の人々の間でしか用いられていない語彙も存在する。つまり語の意味理解の受容・承認も一様ではあり得ない。二次的ルールの不備という点で言えば、「ことば」は「道徳」よりなおルール性に乏しい(あるいはより柔軟である)ということがいえる。
もう一つの視点は、「法的ルール」を「ことばの使用」の一例としてみる見方である。ことばを使用しなければ、いかなる国会議決も不能である。また裁判所もことばが無ければ判決文を発語すらできないであろう。この意味で、ことばは「法的ルール」に対してア・プリオリな位置にあると言える。「法とことば」の関係は「法と道徳」との関係とは趣を異にしている。上部構造、下部構造という区分けが意味を持つなら、ことばの使用に関わるルール系は明らかに法的ルールの下部構造を構成しているとも言えるだろう。言語が人間の知的活動(生活)の基底を構成するという事実認識による発想転換は一般に「言語論的転回(linguistic turn)」と呼ばれている。
ハートは、言語哲学の重要さを熟知していた。それは彼の「法学・哲学論集」に詳しい。彼は命脈尽きかけていた政治・法哲学に「言語論的転回」をもたらし、いわば中興の祖として高く評価されている。
●2.開かれた概念あるいは概念の多孔性(2003/3/5)
ハートの文体にはある種の特徴がある。これは、彼の「法学・哲学論集」の前書きで彼自身によって書かれている。
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