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叫びと祈り
叫びと祈り v2.1 (1980/12/1 1:36AM)
叫びと祈り v2.1 (1980/12/1 1:36AM)
主よ、変え得ないことを受け入れる落ち着きと
変え得ることを変革する勇気と
さらにはその違いを見分ける視力を与えてください。
(早川書房SF文庫版「スローターハウス5」、カートボネガットJr. P.200)
おそらく、反逆と呼び得る行為を行う者の態度は、大まかに分けて次の三つに分け得る。
A.自分が何であるか理解しようとせず、したがって何に向かってまた何故反逆しているかが分かっていない場合。
B.社会のシステムの中である種の位置を占め、その地位を利用して何らかの実力行使をする場合。
C.自己を内的に理解し、自己の位置を確認した後、なお可能な限りの自由を獲得しようとする目的から、束縛を否定する場合。
Aの立場における反逆は「若さの故の反逆」とも呼び得よう。多くの時間とコストが必要であり、およそ誰においても、また死に至るまで続くものである。動物的な力強さを含んでいると言える。また反省の時まで、意味が不明である場合が多い。
Bの立場における反逆は、あまりにも一般的である。「権利の行使」と呼ばれるものがその一例である。しかし、社会のシステムを貫く諸々のルールは相対しており、ある反逆は一つの視点からは正しくとも、別の観点からは悪であるということが往々にして存在する。
Cの立場における反逆は、少なくとも私にとっては理想である。ただしかしながら、実際的にはひどく困難である。というのも理解とはしょせん程度の問題であり、しかも、いくら時間をかけて経験を積んだからといって、それはそう深くなるものではないからだ。
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しからば、何を目的として人は反逆を行おうとするのか? ここで反逆すべき対象、相手は親でも、教師でも、社会システムでもなんでもかまわない。というのも、対象のいかんに関わらず、その目的はおおよそ一定であるからである。一言で言うならば、それは「生存のためのよりよき環境の獲得」であると言える。反逆を行うとき、我々は自分の境遇の不当性をある程度知っている。我々はそれ故、反逆行為そのものを正当化する。しかし、よく考えてみると、正悪の判定は容易ではない。反逆的行為が行われる場において誰が全ての状況を知りつくしているというのか。また、反逆的行為においては、その行為によって、相手の側から逆襲されることもあり得る。相手もまた、「よりよき環境」を望んでいるからである。
☆
さて、我々は、何をきっかけとしてそうした意味での反逆に移るのであろうか? それは「苦痛の自覚」である。これは反逆の目的と直接接がるのであるが、しかしそれは触覚的な苦痛とは異なって、精神的な苦痛であり、継続性を帯びているのが普通である。また、その苦痛には、生命の危険が伴っていることもあるだろう。概してその場合、苦痛の程度、機器の程度に比例して、我々は苦痛を与える何かに対して攻撃的にならざるを得ない。また、その程度が弱ければ、反逆の程度は弱まる。反逆的行為の結果、苦痛を与える何かが、遠のいた場合には、我々は反逆を停止する。
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覚えておくべきは、反逆によって苦痛を和らげようとする場合、反逆の対象は変え得る何かでなくてはならないということである。つまり、社会的システムであるとか、親、教師、仕事といったいくらかでも変え得る余地のある何かでなくてはならないということだ。我々はこの場合にのみ反逆ができる。もちろん、我々の側でまた変わり得るとことろがあるのであれば、他の反逆的行為によって我々は変容を迫られることもあるだろう。この点で幼き子供は悲惨である。
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ところで、変え得るはずである事柄の中に、変革の容易ならぬものがある。差別、戦争、飢餓など、一見変え得るように思えても、歴史的には変えられていない事実があるということだ。これらが変革されず、無くなっていないのは、我々が戦争なり、差別なりに反逆するための動機が弱かったり、欠いているためなのだ。差別する者に被差別者の痛みが感じられるだろうか。また爆弾の雨、火の海の中で生命の危険を体験したことが我々にあったというのだろうか。我々は、この種の事実、-戦争、差別など- を目の前、耳の中にして、「悪である」と決めつけ、反対の宣言書を読み上げることぐらいは、昼飯の前にさえできる。しかし、具体的な「痛み」を欠いた場合、いくらイマジネーションによって補ったところで観念は観念である。観念は日常的な出来事によって圧倒されやすく、かくして悪事は新聞・TVの商品と化し、我々は苦痛ではなく、楽しみすら見い出しているのだ。
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「今日の新聞にはたいしたこと載ってなかったよ。」
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変え得るにもかかわらず、変え得ていない事柄。それは何も差別とか戦争とかといった大きな問題に限らない。我々は極めて日常的なレベルでいくつもそれを抱えているはずだ。有名なのは「性格を変えたい」。こんなのはほんの一例。ところで、苦痛を与える何かについてもうひとつ語らなくてはならない。それは、苦痛を与えるものの中には変え難い何かがあるということだ。比喩で語るならば、富士山にひどい苦痛を感じるという人間がいた場合、彼の苦痛はまず取り去り得ないということである。
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確固たる事実に対して苦痛を感じるというとき、その苦痛を解消する手段はない。逃避と忘却のみが手段として残る。例えば、「社会的システムのある部分に苦痛を感じること」と「社会的システムの中に生まれて来たことに対して苦痛を感じること」とは異なる。前者では苦痛を与えているシステムを変革することで、苦痛を取り去ることは可能であろう。しかし、後者では何をすれば苦痛を取り去れるというのだろう。太宰的なひねりを入れて語れば「生まれてきてすいません。」ということなのだが....。
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この種の変え得ない事柄に対する苦痛、つまり、生きていく上で、最善をつくし得ていない、とか、トータル的に苦しい、とか、まぁ、言語表現の限界において苦痛を感ずること、そんな時は私以外の人にもあるのではないだろうか。早い話、自殺を考えるときである。自殺が反逆的行為であるならば、それは、自分自身が、自己の存在そのものが、人間として生まれて来たことが苦痛であるときであろう。日本人であるという強い自覚の下に現状の日本に苦痛を感じ自殺したのは三島由紀夫だったが、彼とは異なる日本観を持つ私にとって、彼の自殺動機は理解し得るものではない。これと同様に、この種の変え得ない事柄によって感じる苦痛というのはそれを感じる当人の人生観、世界観に根ざしており、なおかつ、それ故に、他者においては、彼の苦痛は私語として理解し得ぬ領域に置かれる。自殺者の手記の類が理解し難く、なおかつ共感し得るところが少ないのは、彼の苦痛が彼においてのみ理解可能な私語だからなのだ。
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以上で、私は反逆と苦痛の関係、なおかつ、癒し難き二つの苦痛、ひとつは変え得るにもかかわらず、事実的に変革しがたい何かによる苦痛と、変え得ぬ何か、それも私語でのみ表現し得ぬ苦痛の存在を明らかにしたと考える。私は、この種の癒し難く持続する苦痛を見るとき、理解し得るか否かは別として、その苦痛の発現を「叫び」と呼ぶ。彼らは叫ぶ。しかし私はその叫びを聞いても彼らの心の内奥に至るまで「理解」はできない。叫び声をあげる彼らとは別人だからである。また、私とて時に叫び声をあげるが、人に理解を強要したり、当然この叫びは理解されるだろうと期待したりはしない。確かに、理解されたいとは思う。しかし、あなたと私は別人なのだ。
☆☆☆
苦痛が持続しているとき、なおかつ、変革する勇気を欠いたり、またその努力がほとんど無に等しかったり、また、そもそも変革しようにも苦痛を与える何かが分からなかったり、変えることのできないものであったりした場合、苦痛は持続する。かくして、我々はその時、叫び続けざるを得ない。そうした苦痛の中では、反逆のへの道は見たくとも見えるものではない。(私が問題とする叫びとはこうしたときの苦痛の発現なのだ)つまりは、苦痛の最中にあって圧死寸前の状態なのである。この時には、忘却を望んだり、見て見ぬ振りをして、そこから逃れたくなるものである。ドラッグ、シンナー、自殺etc....。しかし物事を見る目は曇り、足は地を離れる。一度トリップしたら元に帰るのはさらに苦痛であろう。
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持続している苦痛、つまり叫び続けている最中において、逃げ出すことなく、なおその場に圧死することなく留まるためには、立ち直るための余地と余力が必要である。(それすらもなくなった場合、それを与えてくださるのが神である。というのは基督教的な比喩であって私の議論とはさしあたって関係ない。)苦痛を解消するための方策を考える場と力とを保持する。それが必要なのであり、それが具体的にどのようなものであるか、語ろうとは思わない。ただ、そこで逃げ出したりしないことが必要だと言っているだけなのである。
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「苦しい時の神頼み」としての意味は、そうした苦痛の最中でなお心の平安を得ようとするとき、宗教的儀式の中で解消することの意なのである。これは精神医学上の例えばノイローゼの研究などでは興味深いことであろう。しかし、文字通り、この諺はその普通に使われる意味しか持たぬ。
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私の考える祈りとは、社会システムの中の宗教的典礼とほとんど接点のないものであり、極めて個人的、内面的な行為なのである。苦痛の最中にあってなおさしあたっての心の平安を獲得する努力なのであって、再び苦痛の中に戻るためのワンステップ、一時的休息であるに過ぎない。とどのつまり、苦痛の解消は、それを与える何かと持久戦を続ける以外に途はあるまい。最終的に勝利するのがどちらかは知らないけれども、である。
あなた方は、意志の力、強力な意志の下で具体的な行動を、というかもしれないが、しかし、人間の心は、意志はそれ程に持続的な力強さを発揮できるものではないのだ。祈りとは、自身の非力差、無力さを知ることなのであって、またそれだからこそ、有効な反逆行為に移るために何が必要であるかが理解できるというものだ。つまり、自身の非力さの自覚とは何が欠けているかのか、つまり何が必要なのかを知るということなのだ。
☆☆☆
血のしたたる心臓持つ者たちと芸術家たちが立ち止まる。
君に心からの祈りを捧げると
彼らは次々と倒れていった。
結局、それほどたやすいことではないのだ
狂ったやろうが築いたあの壁に
心ごとぶつかっていくということは
(outside the wall ピンクフロイド 「壁」より)
それが変え得る何かであってもまた変え得ない何かであっても、行く手を阻む壁であることに変わりはない。乗り越えねばならない。しかし苦痛は甚だしい。乗り越えるためのルートを見いだすためにも、いったん離れたところに立って眺める必要があるだろう。祈りのために、そして再度の登頂に挑戦するために。それが血を吐きながら倒れるしかない道であるとは知りつつも。
これは、ピンクフロイドが名作「The Wall」をリリースした年の暮れに、ピンクフロイドのあるファンジンのために書いた文章です。20年を経て、読み直してみると気恥ずかしく思うところもあるけれど、基本的な考え方はあまり変わっていない。という感じがします。
ちなみに、ピンクフロイドは今年になって20年も前のアールズコートでのライブ録音版の「The Wall」CDをリリースしています。僕的には過去の音だなぁという感じであります。
また、冒頭のボネガットの引用句は、二次大戦の終戦直後のドイツのある集会においての神学者カール・バルトによる祈りの言葉であるということです(ボネガットの本には出典の記載はありません)。あと、「反逆の3形態」はNo.6的だけれども、当時はフロイドの「アニマルズ」という作品の「犬・豚・羊」の図式を念頭において書いたものです。
2000/6/21 S.Hanji
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